ニーチェ省察 三
「博学な書物を前に」
「われわれは、書物に囲まれ、書物に尻を叩かれてようやく思考を始めるといった連中とは一線を画す。われわれはいつも、外気の中で思考する。ーー歩いたり、飛び跳ねたり、登ったり、踊ったりしながら、一番好ましいのは、寂寞たる山嶺や海辺で思考すること、道そのものさえ思索に耽る、そんな場所で考えることである。書物や人間や音楽の価値を問うためにまず尋ねるべきは、こういう問いだーー「それは歩くことができるか? それにもまして、踊ることができるか?」……。
われわれは稀にしか書物を読まないが、だからといって読み方が下手になってしまうわけではない。ーーわれわれは、ある者が自分の思考にどのようにたどり着いたかを、なんと迅速に見ぬいてしまうことか。彼は座り込んで、インク壺を前に、腹部を圧迫死、頭を紙面にうずめているのではないか。そんな彼の書物を、われわれはなんと早々と見捨ててしまうことか!そこには締め付けられた臓腑が透けて見えるようだ。同時に、賭けてもいいが、そこには書斎の空気や書斎の天井、書斎の息苦しさも感じ取れてしまう。ーー誠実で博学な書物を閉じる時、私はこのように感じた。謝意を偉大、深く感謝しながらも、肩の荷が降りたような気持ちだった……。
学者の書物には、おおむねいつも何かしら圧迫するもの、圧迫されたものがある。「専門家」がどこかで顔を覗かせる。専門家への熱意、生真面目さ、憤懣が、そして彼が座り込んで思考を紡いでいる狭い分野への過大評価が、彼の猫背がーー専門家というのは決まって猫背であるーー姿を表す。学者の書物はいつでも、歪んだ魂を反映している。いかなる専門職も魂を歪めてしまうのだ。青年時代を共に過ごした友人と、彼らがひとかどの学問を修めたあかつきに再会したとしよう。哀しいかな、なんと見違えるような姿になっていることか! いまや彼ら自身がいかに学問の虜となり、学問にとりつかれてしまっていることだろう! 自分の狭い領域にしがみつき、見分けがつかないほど押しつぶされ、ぎこちなく、均衡を失い、やせ細り、一面節くれ立ち、ただ一か所だけが見事に丸みを帯びている。ーーそんな彼らに出会うと、唖然として言葉を失ってしまう。あらゆる専門職は、たとえそれが黄金の鉱床をもっていても、頭上に鉛の蓋が覆いかぶさり、それが魂を嫌というほど圧迫するため、ついに魂は畸形で歪んだ姿と化してしまう。これはどうしようのないことだ。こうした畸形を、何らかの教育手段によって回避しようなどと考えても無駄である。いかなる分野の達人になるにも高くつく。ーーこの世では何事も高くつくものだ。専門家は、自分の専門の犠牲になるといった対価を払って専門家となる。
しかし(一方で)諸君はそれと違ったやり方を望んでいるーー「安上がりに」とりわけもっと手軽にーー。そうではないか?同時代の諸君よ。ならば、それもよかろう!だがそうなると、諸君はただちにまったく別のものを手に入れることになるだろう。専門職の達人や巨匠の代わりに、文筆家を、器用で「多芸多才な」文筆家を手にすることになるのだ。もちろん彼らは猫背とは無縁の人種である。ーー彼らが精神の販売員や教養の「配達人」として、諸君にむかってお辞儀をするときの猫背を除くなら。
ーー彼らは本来は何ものでもないのに、あたかもすべてを「代表」し、事情通を演じ、その「代理」をつとめて、その対価として謝金を受け取り、敬意を払われ、賞賛されるといったことを、もっともらしく引き受けたりする。ーーいやはや、専門家の学識を具えたわが友人たちよ!私は諸君を祝福したいーーその猫背ゆえに!また諸君が私と同じく文筆家たちや教養の寄生者たちを軽蔑する点でも!そして諸君が、精神を売り物にするすべをしらないがゆえに!金銭的価値で表せない見識ばかりを抱いているがゆえに!そして自分の本領でないものの代理をつとめたりはしないがゆえに!諸君の唯一の願いが、自分の専門職の巨匠となることであるがゆえに!ーーあらゆる至芸や手腕に畏敬をいだき、学問と芸術におけるあらゆるあらゆる見掛け倒し、半可通、虚飾、腕立者(ヴィトルオーゾ)、扇情的なもの、俳優的なものーー要は、研鑽と予備訓練の揺るぎない手堅さを諸君の目の前で証明することができないもの一切ーーを容赦なく拒絶するがゆえに!」
今日、専門家はパフォーマンスを発揮して往来を練り歩く知識人=批評家に対してますます劣勢を期している。ツァラトゥストラに出てきたあの「ヒルの専門家」のように、ある分野にとことん通い詰める者は、その専門性が持つ重さを身内に受けて猫背になるほかない。
しかしこの反対にもっと理想的で自由なパフォーマンスが存在するわけではなく、世間には諸処の専門家を模倣して足しげくそれらを代表するような顔をした論者、つまりいわゆる批評家のような人間たちがいるだけである。確かに前者のあまりにも厭わしい変形は避けがたい。しかし多くの人は何かを専門として、その重さを引き受けることなしには、何事も真に達成することはできない。これを省略して、半可通であちこちに顔を出して手軽な見解を配る「知識人」にこそ警戒するべきで、この点で専門家は確かに気高い。だがそれは隠者や狂人の凄みであり、依然として自然の仮像を受け入れるには重すぎるのだ。
ニーチェは専門家にも敬意は称しても、われわれ(ニーチェは過去や未来に自分と並び立つ者をこう称する)はそうではないと考えている。それにしても、専門家の重苦しさを如何としたものか。「われわれもまた、おおむね学者であることは否めないところではあるが。しかしわれわれは、学者とは別の欲求、別の成長、別の消化をする存在である。」これがどれほどの誤解を生むのか、想像に難くはない。
かような次第で、ニーチェはやはり読みにくい。私が思うに、いかなる理由であれ、傷ついた状態にある人は、ニーチェにあるがままの自分の形式の肯定や、あるいはニーチェ自身に理想的な人間像を求めて本を開くべきではない。なぜならこれは誰に対しても開かれた思考ではないし、聖書のような癒やし=解決(納得、説明、理解、反動的な肯定)の書物ではないので、負傷した状態の人間がニーチェを読んでも、この門は私には開かれてはいないと気づくだけで、むしろ傷を深くするか、最悪ニーチェに対して怨みを抱くだけだろう(そして彼はもっと手軽な信仰を求めて彷徨い始める)。
むしろ余裕があり、自分が最初は徹底的に居場所のなく、しかも自分はどうするべきなのかも簡単には与えられないということと向き合えるときの人間が、つまり誤解を避けない人間が、読み進めることができる。(とはいえ、私はこの傷つかない鋼の精神も、ニーチェの再読を通せば「誰にでも」ーーこの言葉に含みがあることはご存知だろうがーー獲得されると考えている。)
例えばニーチェは弱者に一様に厳しく、彼らはいずれ淘汰されるべきだという意志を貫いている。そしてそのことに関する多くの誤解を避けようとはしない。だが、今やこれを誤読したまま、悪用しようとした人間が現れた以上、我々はエクスキューズとも向き合う必要がある。
この弱者とは一般的な意味での身体的・精神的弱者、あるいは社会的弱者を意味するものではないし、いわゆる強者とは全く異なるものだ。そもそも現代において、強者は潜在し息を潜める中、弱者が満ち、強者が飛び跳ねたりしないよう抑制される社会なので、強者はむしろ自らの勝利しか知らない、社会的な弱者であり、一方で弱者は彼らの生きる現代の勝利を確信した、弱者の徳の中での強者である。
ここで、私はニーチェほどの強者でないので、この弱者と強者という言葉の中に既に多くの人が生理的な反感を抱くことに気づけてしまうし、あまつさえ、歴史の中のあまりにあからさまな奴隷制や階級制度への回帰をニーチェが推奨しているのだとすら考えることだろう。このように読み取ることへのあまりに自然な流れの強要こそ、我々の解釈の持つ能力に覆いかぶさる現代性を暗に表している。この生理的なレベルにまで高められた強者への反感の念こそ、パウロ=ローマ・カトリックが用意した疚しい良心の大仕掛けである。
(ところでニーチェはキリスト教は否定してキリスト自身はブッタのような受動的ニヒリズムの人であったと捉えている。「聖パウロによって異教的神秘説へと歪められ変形されて、最後には全政治的組織を味方につけ…、また戦争をすること、非難すること、拷問すること、誓約すること、憎悪することを学ぶのである。」)
確かに未来において強者は勝利に向かうだろうが、それは支配的な弱者のルールを破壊するという意味であり、逆に弱者が侠者のルールの中で生きることを意味する。ここでも念を押すが、「経済的強者や知的階級が強者であるなどとニーチェが言うわけがない」と知りながら、我々の臆病な思考は、ではもはや倫理などない無法の時代に回帰するのか、と懐疑を持つだろう。然り、各々が価値を創出し、世界を解釈するためには、この平準化された人間像を迫る倫理こそ最大の問題であり、怨敵である。
追記
「われわれの友へ」の中にはこのような記述がある。
「きまじめな平和主義者というのはたんに、おのれの卑劣さを理性的に直視しない人間である。かれは自分が相手どって戦っているつもりの現象の本性について、二度もとりちがえをおかしている。戦争は武力衝突にも殺戮にも還元されないばかりか、かれが賛美する集会政治の母体そのものなのである。」
「多種多様な諸世界が存在し、生の形態が厳然たる複数性に裏打ちされている以上、戦争とは大地における共存の法にほかならない。というのも、それらの出会いの顛末を予測させてくれるものはなにもないのだから。対立は、たがいに隔たったままの諸世界では生じ得ない。われわれは、葛藤をはらんだ諸力の遊動なのであり、そこからあいついで浮上する布置はせいぜいつかのまの均衡状態を示すにすぎない。そうである以上、戦争は現前するものの素地そのものである。」
ニーチェ省察 二
「真理はつねに本質として、神として、最高の審級として立てられてきた。…しかし、真理への意志は批判を必要とする。ーーそこでわれわれの課題を規定しておこうーー試みに一度は真理の価値を問題にしなければならない、と」
それゆえ、カントは最後の古典的哲学者である。彼はけっして真理の価値も、われわれの真実への従属も問題にしない。この点については、彼もほかの人と同じように独断的である。彼も他の同様に独断的である。彼も他の人々も、次のようには問わない。誰が真理を探求するのか。つまり、真理を探求する者は何を意志するのか。彼の類型、彼の力能の意志はいかなるものであるのか、と。哲学のこの不十分さの本性を理解する試みをしてみよう。誰もがよく知っているように、人間は実際にはめったに真理など探求しない。われわれの関心も、同様にわれわれの愚かさも、われわれの誤謬よりもいっそうわれわれを真実から引き離している。しかし哲学者たちは、思考である限りの思考は真実を探求し、「権利上」真実を愛し、「権利上」真実を意志する、と主張する。思考と真理の間に権利上の結びつけを設定するにも関わらず、哲学は真理を、哲学自身の意志であるような在る具体的意志に、諸力の或る類型に、力能の意志の或る質に関係づけることを避けるのである。ニーチェはこの問題を、それが置かれている場所で引き受ける。彼にとっては、真理への意志を疑うことは問題ではなく、人間は実際には真理など愛していないということをもう一度想起させることも問題ではない。ニーチェが問うのは、概念としての真理が意味しているものであり、この概念が権利上どんな形質化された諸力と意志とを前提しているかである。ニーチェは、真理に対する誤った要求ではなく、真理そのもの、理想としての真理を批判するのだ。ニーチェの方法にしたがって、真理の概念をドラマ化しなければならない。
「真実への意志、これはわれわれを幾多の危険な冒険へ誘うことであろう。この有名な誠実さについては、すべての哲学者はつねに敬虔な気持ちで語ってきた。なんと多くの問題をこの真実への意志はわれわれに課してきたことか! …われわれのうちのいったい何が、真理を見出そうと意志しているのか。実際われわれは、この意志の起源の問題の前に久しく佇んできた。そして結局、われわれは、さらにより根本的な一つの問題の前で完全に歩みをとめてしまった。…われわれが真実を意志することを認めるとしても、ではなぜ、むしろ非ー真実を意志しないのか。あるいは不確実を。あるいは無知さえも。…では、このことを信じられるだろうか。結局、この問題はこれまで決して提起されたことがなく、それはわれわれによって初めて見ぬかれ、注目され、断行されるように思われる。」
(G・ドゥルーズ 「ニーチェと哲学」江川隆男訳)
真理自体の価値など必要ない。真理が問いに立たされることは、真理自体の導きの中にある。というのも、まず不定の真理を探せば、みんなその真理に従っていることがわかるはずで、真理への意志も発見されたこの真理の中で語られることだろう。カントはこの点において誤っていた。ニーチェは此れに対して真理を求める意志を要請することで、カントより前に問いを設定した。「そもそも真理を必要とするのは誰なのか?」
この問いはしかし、あらゆる意志を壊すアナーキズムへの回帰を意味しない。価値は不定ではないだけで、価値は批評によって別々に創造される。一見は一元性を捨てたように見える人が言う。ヘーゲルは失敗した、カントも不十分だ、ならばツァラトゥストラという多を司る彼こそ、今日から新しい神となる、これこそが否定の用意する最後の躓きである。
というのも、問われなかった真理への意志という点で改めて読み直されれば、彼らとてニーチェの語るものと同じように、素晴らしい概念の創出者達である。ただし彼らはある前提を無化したまま高度な問いを創出している。魚の釣り方を問題にするとき、餌の付け方を問う人と、釣り場の場所を問題にする人がいるように、これらは問題のレベルが異なるのだ。
とはいえ、ニーチェは彼らに対して、その編成を根底から覆えし得るような問いを創出しただけで、彼らに対して優越する(つまり真理への距離として先取した)、あるいは問いの価値を無化するところは何一つないのである。確かに、この必然として真理への意志を問わないとき、現実の欺きに対して空想の世界に真理を用意するとき、生の否定として生じることになるニヒリズムがいまや無への意志であると判明し、ニーチェの問いの中ではどうあっても袋小路に向かう。だとしても、これらは意志自体の一つのれっきとした亜流であり、彼らの意思自体は問われないままも清廉さの中にあり、それを間違った意思であるとして否定するべきだという考え方は、そもそも問いが用意した射程からは「権利上」用意できない。
ニーチェ省察 一
-p175
「高いものと高貴なものは、ニーチェによっては、能動的諸力の優越性、それらの諸力と肯定との親和性、それらの諸力の上昇傾向、それらの諸力の軽やかさを示している。低いものと下賤なものは、反動的諸力の勝利、それらの諸力と否定的なものとの親和性、それらの諸力の重苦しさあるいは鈍重さを示している。ところで多くの現象は、反動的諸力のこの鈍重な勝利を表現するものとしてのみ解釈されうる。人間的現象の事例は総じてそのようなものではないのか。反動的諸力とそれらの勝利によってしか実在することのできない諸事物がある。語ったり、感じたり、思考したりすることもできないような諸事物があり、反動的諸力に突き動かされる場合にだけ、信じることのできるような諸価値がある。ただし重く低い魂をもつ場合にだけ、とニーチェは明確に言う。誤謬の彼方には、愚劣そのものの彼方には、魂の或る下劣さがある。したがって、諸力の類型学と力能の意志の離接は、今度は諸価値の系譜ーー諸価値が高貴であるか、下劣であるかーーを規定できるような一つの批判と分離不可能であるということになる。
ーーたしかに人は、いかなる意味で、またなぜ、高貴なものは下賤なもの「より価値がある」のか、あるいは高いものは低いもの「より価値があるのかと尋ねるだろう。またいかなる権利によって、と。われわれが力能の意志をそれ自体において、あるいは抽象的に、肯定と否定という2つの反対の質を与えられたものとしての考察する限り、この問いに対して何も応えることができない。なぜ、肯定は否定よりも価値があるのだろうか。我々は後に、解決は永遠回帰の試練によってしか与えられえないということを見るだろう。つまり、「より価値があり」、また絶対的に価値があるのは、回帰するもの、回帰に耐えるもの、回帰を意志するものである。ところで、永遠回帰の試練は、反動的諸力も、否定する力能も存続させておかない。永遠回帰は否定的なものを価値変質させるのだ。永遠回帰は、重い物を或る軽やかなものにし、否定的なものを肯定の方へと移行させ、否定を肯定の力能にするのである。しかし、まさに批判とは、能動的になった破壊、肯定と深く結びついた攻撃性というこの新たな形式の元での否定である。批判は、喜びとしての破壊であり、創造者の攻撃性である。価値の創造者は、破壊者、犯罪者、批判者ーーつまり、既成の諸価値の批判者、反動的諸価値の批判者、下劣さの批判者ーーと分離出来ない。」
今日、ニーチェのような個人的な功利主義、解釈至上主義者というあり方は、思考に確信を持つことが益々困難な思考である。なぜならそのようなあり方の積極的な差異の意志は「結局、やってることは反対側の人間と『同じ』じゃないか?」という同一性への回帰を画策する者によって撹乱される。区別不可能なもの、それは常にあまりに早く同一性に接近させられる。これだけでなく、些細な筆の走り自分自身に懐疑をもたらし、本当に自分の思考はニーチェを開始しているのかと、何度も自家撞着に陥ることになる。あるいは、もっと根本的には、自らの唱える思考の形式が、形式自体の内容として矛盾してはいないのか?思考を開始するために、あるいは多くの中で価値を専横するために、自分の思考のあり方に部分的にでも背いているような有様では、その思考は正当なものではないだろう。
例えば意志そのものを意志するというあり方ーーナチ=ハイデガーが行った「力への意志」を欲望するーーではなく、意志は自らのあり方をあらゆる形で創造していく。意志にはそもそもモデルも主体性もない。しかし意志を思考し問題化するとき時、そのあり方を定まった形に収めようとするこの思考の流れに抵抗することには、今や甚大かつ細心の努力が必要になる。
そしてこのような逡巡に浴びせられる「肯定」と「否定」の二者択一の深淵は、そもそも思考を脱輪させようとするオイディプスの誘惑が(しかし本義から言えば違法ではなく、まさに多の中の一つの思考として、だが多を簒奪する征服者のやり方をもって)潜んでいるのである。
とはいえ、ニーチェは平等主義者でも博愛主義者に成り下がることはない。平等とは疚しい良心の見せかけの善性であり、ギリシャのような善さを転換するキリスト者という弱者の十字架を背うことで逆に高みへの出力を捻出した、いわば高利貸しの、絶対に自分自身のものではない道徳である。ニーチェは能動という肯定性を強く欲する。またそれは主人と奴隷の対立という対立と止揚主義、また競争主義という否定性への肯定でもないし、むしろそれらの能動的な破壊である。だが破壊スべきものが存在する時、それはまだ自由ではないだろう。
ニーチェに関するドゥルーズの多くの解釈は、ニーチェそのものに依拠するようで、そこから発しながら最後には決定的に彼に依拠していない。言ってみればこれは彼が意志する(そう合って欲しい、そうあるべきだ)ニーチェであり、ニーチェ自身ではなく彼から由来する力能について、ドゥルーズ自身が語っている。そこにはヘーゲルのような、「◯◯において」というごまかしはない、これは彼と、しかしその最初から彼だけのものではない)ニーチェが共に向かう方向である。ところでこのような方法こそ、まさにもはやニーチェ的でない場所(場所という言葉は力能の非ー定在性に反している)で、彼を忘却しながら、ニーチェの思想を反復する、永劫回帰のやり方の実践だと言えよう。
このような段階を経て、ニーチェはわれわれにとって最終的に、あるいは来るべき新しい人にとっては最初から忘れられるべき存在だと思う。ただただニーチェを開始さえすれば、快癒した人が病床の苦痛をさっぱり忘れるように、そもそも彼が何を言ったかなど何の問題でもなく当然になり、否定性は癒えるはずだ。われわれの多くの(あるいはわれわれの中に執拗に根付く)砂漠に向かった人々のイデアの苦しみは畜群の群れの無知ゆえの、最も哀れを誘う喜劇である。この逆に強い人々は最初から悲劇に向かい、一=多であるディオニュソスの傍らに在る。
ゲームレビューその2
やったゲームの感想 それほど批評的でもないし、まさにまさに雑記。またメジャーなのも多いがあしからず。
1 Ryse son of rome
エンジンこそ専用ではないが映像がただただ美しい。ただ美しいのではなく、ベン・ハーの世界を手回しカメラで移動するような喜びを感じる(酔いやすいが)。風景の中で、あるいは戦場の中で一番おいしいポイントを移動する喜びがある。いわゆるQTEが多用されているし、ゲーム性に乏しいという意見は当然あり得る。ただそれはしばしばゲームの映像が貧しい時に使われるいわば捨て台詞で、これだけ調和の取れた世界とたくましく尊敬に値する闘士に、我々が小賢しい技術を弄して介入する必要はないとすら感じる。それにしても勇壮さに寄り添った巧みな脚本が素晴らしい。
2 Portal /Portal2
ここにはカリフォルニアのスピリット、つまり卓越したインダストリアルデザインを感じる。何がいいたいのだろうか?マイクロソフトの実直さではなくアップルの柔軟性、ブラックベリーではなくIphoneである。Vaultはゲームをデザインするとはかくあるべきという姿勢を見せ、平面に対する思考を「横紙破り」に「風穴を開け」て「風通しを良く」した。物理法則の変則だけでゲームをデザインすることは、最も単純な喜びでありながら何度でも我々を驚嘆させる。同時にこれはゲーム性へのあるパロディを含有している。穴の向こうの部屋は、本当に同じ部屋なのだろうか。そして話に聞いていた通り、Gladosは本当に可愛かった。
3 borderland
僭越ながら、途中で飽きてしまったし、また今後手をつける予感がない。なるほどコミック・ワールドをジープで走って賞金稼ぎを行うGorilaz-fallout世界は魅力的だ。だが、ここにはオープンワールドとしての生気がない。そもそもキャラクターを設定して没入するはずのゲームがFPS、しかも大きな目的がないというのは致命的だ。これでは賞金稼ぎというロールをやってるのか、些末な報酬系にドライブされてるのかわからない。そして全く歴史のない荒野はディテールへの注視を巧妙に拒んでしまい、この点が失われた歴史の上にかぶさった汚染された大地という二層構造になっているFalloutのディテールとは格を隔ててしまった原因だと思われる。
4 Life is strange
最高なんだよな(オタク)そもそも批評的作品なので話しだすとめんどくさくなるので割愛。話してもネタバレだし。やれ。アメリカのスクール・カルチャーというコアに寄り添ったゲームは大体面白い。
5アンチャーテッド エルドラドの秘宝
123が入ったコレクションを買ったのでその1。これはノーティドッグの往年の名作クラッシュバンディクーの翻案、要するにジェットコースターってことでいいんじゃないか。プレイヤーをドライブさせる脚本が結構ハードなジャンプ判定とウジャウジャ湧く敵で割と阻害されてる気がするが、そもそもベリーハードまで設定してるんだから基本的に死にゲーと見て相違ない。
それにしても2007年に多くを期待するのは間違いな気がする。背景や世界観への信頼感がなく、うっかり長回しするとゲーマーを冷めさせるんじゃないかという恐怖のために、いたずらにせっつかれされてるような印象。おそらくこの問題は開けていて歩き易過ぎる空間のデザインも共有している。アナログカメラでプレイヤーの視線をデザインするということは、これと2の間で創始され始めた概念なのではないか。(余談だが邦題はインディージョーンズ風。まぁそりゃそうっすよね~)
6アンチャーテッド 黄金刀と消えた船団
いまやっている途中だが、明らかに1と違う点がいくつもある。遠景と近景の巧みな交差、つまり視線のデザインであり、ランドスケープとディテールの萌芽。1のアスレチックのジャングルジムを遊んでいた感覚とはわけが違う。明らかに世界の作り込み方が違う。例えば開けた空間に入るなら、最も魅力的な巨大建造物をカメラが中心に据えるように動く。とにかく、ここから本物の「大作」が生まれたように思う。予算というか、映像力がもうぜんぜん違う。
6 Shelter
いかにもインディーズゲームらしい一発勝負の作品。要するに食物連鎖がドラマでありそれだけですらゲームになり得ることの実験として機能しているのだが、食物連鎖にドラマを見出すのは所詮人間であり、彼らに生死に対する観想はないというところまで描くのはすこし誠実過ぎるというか、びっくりするような命の雑な扱いにしびれたりする。割と荒いポリゴンの世界も彼らの認識力の所以だとすれば何か感動を蓋ぐニヒリズムすら流れている気がする。パッケージのいかにもなほんのりヒューマニズム感よりも真面目で冷徹な作品。
5 Dead island
これもどうも手を付けるのが面倒なことが徐々に判明してきた。そもそもお使いゲームとはお使いに足るだけのサスペンスやフェティッシュな喜びが必要なのに、酔いやすいゴロゴロしたカメラで南国を彷徨う楽しみはゾンビがぶち壊しにしてくる。それにしても武器はいつでも消耗しているから逃げるしか無いのは仕方ないが、ゾンビはどこからでも襲ってくるのでせっかくの景観に対する信頼感をゲームが否定してくる。しかもゲームのシステム自体に新鮮な喜びはないとなると、壊れない強い武器を見つければ乾いた暴力衝動しか残らないわけだ。南国の楽園にゾンビが出現する、という設定の面白さを投げつける以上のワンダーを期待したかっただけかもしれない。
6 Middle-earth shadow of mordor
途中でゴラムが出てくるまで指輪物語のスピンオフだということすら知らなかったのだが、筋書きは単純な復讐物でしかも大軍を一人で崩していくという内容で割と燃える。ゲームシステムもオープンワールドというほどもない広さを個性的なシステムで無理なく反復させているし、中ボスはやり方を覚えると消化するだけにしても、序盤は同じ奴に何度もやられて名前を覚えていき、なんとしても倒してやると手管を使いはじめる過程などに独特な喜びがある。アクションも大胆ながら繊細で、アビリティの育成はほとんど一本道とはいえそれらの使い所を考えるのは楽しい。また大軍をやり過ごして大将だけ倒すという任務が多いためステルスゲーの緊張感も損なわれておらず、大作志向風のミドルクラスの雄という感じだが、マップや似通った反復が多いため多少の心残りは仕方ない。
7水着バレー(DOA EXTREME3 fortune)
神話。肉体の彼岸。
『肉体は悲しい。 ああ、読んだぞ わたしは 万巻の書を。
逃れさる! 彼方へと遁れる! その海に 百千鳥の 酔う様は
砕け散る 見知らぬ波と 天空の あわいに懸かり
引き止めはせぬ もはや何も… 眼に映る 見慣れた庭
それさえも 引き止めはせぬ 海に心が 浸るのを。
(~)出発する! 目指すはただ 異郷の果ての 大自然よ!
倦怠は 酷い希望に うちひしがれて なおも頼むか
打ち振る絹の 今を限りと 別れのしるしを!
さらばだ、マストも 違いはない、嵐を呼んで
猛り狂う 遭難の海の 風に傾く 帆柱か。
跡形も無い マストもなくて マストも豊かな 鳥影もなく……
我が心よ、されど開け、水夫たちの 歌声を聴け!』
(「海のそよ風」マラルメ)
では、
僕が水着バレーで撮った写真を貼って解散です。
なお、僕が水着バレーで撮った写真は今後も公開されます。
Steam ゲームレビュー1 ”FIREWATCH”
最近ゲームばっかしてるのでゲーム記事書いた。多分今後も書くのでその1とする。
実は次回、誌で用意してる企画が、…まぁ色々ありまして。
載せる場所もないのでブログに投げる。
Firewatch
http://store.steampowered.com/app/383870/?l=japanese (このゲームはPS4版が発売されていると聞いて、PS4しか持っていなかった僕は小躍りして探したが、なんと米国アカウントのみの販売だった。というわけで販売は事実上steamのみ。)
最近多くのゲーム会社(特にスタートアップ企業)が、ひたすら広大で凝ったマップを用意すればプレイヤーが喜んで飛び跳ねまわると思ってる。冗談じゃない!プレイヤーは全員超近視眼的なので五秒毎にタスクを思い出さないと広大なマップでとりあえず身近な人を殺しまくるという最悪の暇つぶしに興じて、しかも自分ですぐに飽きてレビューに「広いだけの糞マップ」とつける、クリオネみたいに素朴で、マンボウより精神が脆弱な人々なのだ。「全部自由にやらせてくれよ!」の類いの請願を真に受けるとそうなる。そしてこの問題に関して、このゲームはとてもクリアな解答を用意したと思う。
いくらかの選択肢を交えながら叙情的に主人公ボブの経緯を語り終えたあと、君は森林火災監視員に就任して、普段は高い木組みの塔の上で生活しながら、時にトランシーバーの向こうの女性の指示を受けて、森の向こうの不審な火元や花火の類いを発見する。そしてそれを確認したり消したりするために地階に降りて、鬱蒼とした森の中を行ったり来たりすることになる。
しかし、下に降りるともうその火元が見えないし、もうどっちの方角で火が上がってたのもわからなくなる。そこで君はついに(億劫で)(嫌々ながら)地図とコンパスを使う。このキーボード配置が若干遠くに在るので、実際何度も出したり仕舞ったりするのは超面倒。しかも出してる間は走れない。
地図にはあたりをつけた場所が勿論乗っている。だが地図は地図なので、自分が見ている方向との照応性はない。なのでコンパスと突き合わせながら方向を正して、改めて周りの地形と照らし合わせなければならない。それから景色を見渡しながら、さっきみた地図の記憶を頼りにおずおずと進む。だが、森は濃くてランドマークもない。地図を逐一確認しないと、君は行き先を見失って間違ったまま道を突き進んで、すぐ自分がどこにいるかもわからなくなり、泣きながらさっきの道を戻ることになる。どう考えても最悪に不便で不快な経験だ、普段ならば。
だがこのゲームの最もエキサイティングな経験、それは迷うことだ。
なぜなら現実の世界で迷うことを「自分から」望むのは難しい。そもそも目的がなければ迷わないので散歩とも違う。迷うというのは間違った道を進むことだから、当然普段から迷ってばかりではいられない。目的があって迷うことが出来ても、「何時に◯◯へ…」のような時間的な条件があれば、目的地から遠ざかったりすればもはや精神の余裕は全く無いし、間違いなくパニックになる。
その点このゲームは、最高に望ましい形で迷うことができる。時間はたっぷりある。君はいい景色があったら使い捨てカメラで撮ってもいい(この使い捨てというのが実に良い、実質20枚程度しか撮れないから、必然的に撮るべき景色を良く考えることになる)し、地図とコンパスを見ずに記憶だけでどこまでいけるのか試してみてもいい。多分、失敗するが、失敗した先に発見があるかもしれないという期待は、むしろ君を積極的に迷わせるだろう。
またストーリーに関係があってもなくても、発見したものにつけてしばしばトランシーバーをつけて窓口の先の女性と雑談できるイベントが用意されている。この雑談の内容は大抵くだらない。これで何を思い出すかと言えば、MGS1~3のやりこみ要素としての、くだらない無線だ。他愛ないおしゃべりは素晴らしい。
この会話は基本的にラジオを通してリアルタイムで行われるが、相手の答えに対して返信が自動的に現れるのではなく、まずラジオをつけてそれに反応するか、しないかを選択できる。つまり、そこで応答しないこともできるし、その場合にも「応答しなかった」ことへの反応がある(「応えるのがそんなに難しかった?」とか「答えたくないならいいけど」とか)。
返信のタイミングにtabキーを押せば、更に最高3つの選択肢の中から応えることになる。この選択中にも時間制限は進んでいて、反応しなければ時間経過の非回答として会話が進行する。こんな具合に、トランシーバーの会話にしては非常にインタラクティブな会話なのだ。
大抵の会話はそれほど重要ではないので適当に答えるといいが、時にトランシーバーの女性の繊細な気持ちに応えるような状況で、毎度三つの選択肢から時間制限ありでベストのものを答えようとしたり、あるいは何かウィットの効いたことを応えたいと思った場合は、確かにネイティヴ以外にはしんどい部分だし、もちろんネイティブにも悩ましいものだろう。(かく言う僕もネイティブじゃないので、気を抜くと重要な英語の指示が左から右に出ていくが、最低限の指示は確認できるようになっているし、そもそもそれほど複雑な指示はありえない。)
ところでこれが逆だったら、つまり毎回リアルな会話の選択肢に、何分でもかけて最良の選択を選べるような状況だったらどうだろうか?それは会話自体の魅力を、与えられた会話の選択肢に自分の気持ちを近づけて成功させようという気持ちを削いでしまうし、相手と同じ時間と状況を共有してる気分にはなれないかもしれない。つまり、時間内に答えなければならない、という状況は、時として、何時間でもかけて答えられるよりは緊迫感が維持され、ゲーム体験が刺激的になる可能性がある。
ゲームにおいて、確かにその空間自体の質が、ゲーム体験を決定するほどに重要な要素になり得る。本作の彩色が強くてテクスチャーもゴテゴテした感じは懐かしい感じを覚えさせて好印象だ。だがそれだけで終わりのはずがない。多くの人は、よく出来た箱庭を与えられれば、気分が最高になり、ゲームレビューに★5つを付けるほど感受性は開かれていないのだ。加えてそういうゲームは思索を必要とせず、割りと簡単に作れて、もっと最悪なことにB級ゲームとして市場に溢れかえっている。
そこで、なにができるのか、何をすべきなのか、あるいはまた何ができなくて、何をするために時間をかけるべきかを用意することこそ、むしろ当面ゲームがより追求すべき問題じゃないか?この点で、ゲーマーは決して生のままの自由(レッセフェール)を望まないのは確かだ。時にこのゲームのように、地図とコンパス、そしてラジオの向こうの女性の指示を頼りに、森の中を頭を使って彷徨いたい、迷いたいと考えているはず(だがこれは矛盾した願いなので彼らの頭にはそうそう浮かばないだろう。)
読書欲が戻った話
大学の授業が全部終了して、それでもまぁ先のことを考えると一息もつけずに居たりした。これで一応自由の身ということらしいが、サルトル的な意味で全く開放感はなかった。刑務所の中で今日は一日自由人のフリをしろと言われたような心地だった。んで大学期間中の習慣を引きずって、今日も午前から夜まではうじうじしながら「純粋理性批判」の上巻の端を読んでたけど、夜八時になってもまだ外に出てないし、作りおきのカレーを一日以上食い続けると流石に体調に影響を与えるんじゃないかと危ぶんだので、外出した。
それにしても学術書はべらぼうに高い。でもまぁ再び先のことを考えると(考えても結局)勉強するしかねぇなぁ〜と、「純粋理性批判」の下巻3600円(でも上巻と合わせても5600円だから、そうはいっても努めて良心的だ)を紀伊國屋書店の三階でいかにも自分の知的スノッブに恥じいって見えるよう沈鬱な顔で裏返してレジに出して会計し(だが店員は特に興味なさそうだった)、その後地下に降りて、あの例の妙に気ぜわしいパスタ屋で店員の眼を盗んでジュノベーゼに粉チーズを並並とかけて、真っ白になったそれをかき混ぜて見えなくした奴を薄っすいオレンジジュースで流し込み、それで腹がくちくなったらビックロで買いもしない電化製品を冷やかして、最後に3丁目辺りのブックオフに行っていつものように「孤高の人」十四巻で文太郎がK2東壁の最後の500mを登るか生きて帰るために登らないかで精神が分離する辺りを読んで、この作者やっぱすげぇとなった後に、不意にあっ本読みてぇ俺と思った。
そこから、自分でびっくりするぐらい自然なモーションで、ラノベコーナーに回って名前だけは聞いてた奴を一冊手に取り、大丈夫そうなのを少し確認してはすっと抱え、ついでに文芸コーナーでも単行本をさっと選び、それから4コマ漫画で買いたかった奴をぱっと見つけて、レジに向かい、会計を済ましていた。すっ…さっ…ぱっ…で店を出てきた折には妙に晴れ晴れとしていて、なるほど読書欲ってこういう感じだったよなぁと懐の感触を確かめていた。
誤解されるかもしれなかったが、本はまぁ恒常的に読む性質だとと思う。ただここ最近は、面倒な本ばかりぶつかって能動的に読む必要のために結構苦労していた気がする。そもそも積読を作り始めたのも大学に入ってからだった。そこからは買った重い本をさばくのに精一杯だったのか、それを読み進めては買い足して、また読んでを繰り返していたので、小説に関しては二年ぐらい、ラノベは丸々六年ぐらい受動的な読書欲が凍結していたと思う。今本棚を検分しても小説はそれなりにあるがラノベがほとんどない。(「人類は衰退しました」ぐらいしかない。)いくつか買ったまま中途で放置した小説もある。買ったら読みたくなるかもと思って、結局手をつけなかった奴もある。とにかく、一日中本を読んでた日もあったが、本に熱を上げた記憶がしばらくなかった。
全体的に大学に入ってから、切迫した読書ではない娯楽系を意図的に避けていたというか、どうも変なリミッターをかけて、自分の読書欲をコントロールしようとしてたらしい。もともと大学に来るまでは小説しか読んでなかったから、大学に入って教養書研究書の類いを読み始めると、逆に前者を避けようとしてたのかもしれない。そこでどうして不意にそれが戻ってきたのかと考えると、やっぱ一応大学が終わって、掛けがねが外れたようだ。それにしてもつまらんことをしていたと思う。別にどんな本でも本には違いないし、娯楽に高尚も低俗もないし楽しくて気が紛れるものは、概ね良いものじゃないか、と今は思うんだが、読書欲が自分からは出ないときは結構穏やかじゃなかった気もするので、まぁ人生しゃーなし、ということだろうか。
オチが面倒なので今から昭和エッセイ風の風刺に落としこむが、翻って読書欲というものは滋養と同じで、頭にいいモンばかりを詰め込もうとしても頓珍漢なことになるが、それをエラい学者がやれ教養だ、嗜みだ、早く俺の本を買えと急かしたり、知ったかぶりを吹かす輩がやい俺はこんなに読んでいるんだぞ、と現れたりするもんだから始末が悪く、悪食と腹下しが横行する。変な風潮が現れて界隈が暗くなる。本は読みたいときにだけ読めばいいし、読んだ数で特に何か箔がついたりするわけがない。だから某の蔵書が何冊だった、本読みの鑑だぁなんて脂下がる奴は早く回線切って首吊って氏ね。以上でーす。
2015年ベストアニメ回10選(含アニメ評)
今年もそろそろ終わりとなってきたのだが、アニメに関しては備忘録ぐらいつけておかないとどういう年だったか思い出せないと思う。
それで困ることもないかもしれないが、とりあえず今年は実況とかしてかなーりだらしなく見てしまったことは悔いていて、まぁ作品ごとに受容の仕方は分けているつもりだが、それにしても第二の禁呪詠唱(ワルブレ)を見つける作業に従事し過ぎた気がする。
というわけで、TL見てたらやりたくなった、今年のアニメの話単位のベストを残しておきます。しかしこの手の判断に必要なのは、年内のオールシーズンのアニメに関する等質な眼だと思うんですけど、USBHDが物故割れてしまい、今年の冬アニメ(1月〜6月)はな〜んと記憶だけが頼りなんですな、これが。お兄さん許して〜。
あと、ランキングとかは必要ないと判断しましたわ。
第34話『「ダービー・ザ・ギャンブラー その2』
脚本=ヤスカワショウゴ 絵コンテ=津田尚克、江副仁美 演出=江副仁美
作監=小美野雅彦、渡邊葉瑠
ジョジョ、この辺りはハッタリが効いててムチャクチャ面白い回が連続してし、こっから勢いが落ちなかったのは神がかってたなぁ。多分に質のいいOVAがあったから、なおさら気合入れたんだろうなぁ。
まぁジョジョのあの八頭身のキャラは見かけには縮こまってるほどより絵に凄みが出るんで、特にこの回のあの陰影に富んだ顔とゴツい陰影の指のクローズアップは卑怯です、かっこいいし。やってることはお互い無茶苦茶に姑息な騙し合いというか、実はポーカーやると誰でも思いつきそうなハッタリなんだけど、あの銀河万丈声のダービーが汗だくになってアレコレ考えてしまうのが益々良い。そんで落ちが最高なんですよね。この回、また見たいぞな(HDDから消えてる)しかしすげぇなこの顔。
がっこうぐらし!
第七話 『おてがみ』 脚本=小太刀右京 絵コンテ=許平康 演出=吉田俊司
【あ、その話、しちゃう?みたいな顔で】がっこうぐらし、大枠の構図が露骨過ぎて人によっては敬遠されてたと思うんですけど、エピソード単位で観ると粒感あった。まぁ「信頼出来ない語り手」的な見方も良いと思うんですが。
そんでこの回は小太刀右京節という感じで。前半は実は自分の見てる学校がフィルター掛かったディストピアだってことに気づきそうになったユキが混乱して逃げ出すという感じなのだが、それを見咎めたミーくんに対してくるみが「気にすんなよ、誰も悪くねぇよ…」って…お前そのフォローは中々すごいことになってないか…それじゃ本当にユキが残念でお荷物な人みたいな感じになってないか…?と舌を巻いたりした。
後半は、学園生活部が手紙を書いてどこかに飛ばす、というハートフルな話なんですけど、どこに着いたかまで描かないのが良いんですよ。外にゾンビがいるのに何を書くべきかな〜とかどんな人が取るかな〜とか女の子らしくアレコレ考えてそのロマンチックさに酔って完遂しちゃうという筋、とにかくどっちも創り手が色々無責任で良い(;´∀`)女の子がひどい目に合う話が好きなのだが、その冷酷さに世界=制作側が無自覚だと更に良いと思う。世界が少女の苦痛に無関心だという地獄。というわけでB級二本立てみたいな感じで。デス・プルーフ&プラネット・テラーinグラインド・ハウスみたいな感じでどうだろうか。ゾンビ映画だし。
第十話(最終話) 「湯加減いかが?」
脚本:高山カツヒコ/絵コンテ:飯村正之/演出:飯村正之/作画監督:前田明寿・ 藤原奈津子・乗田拓茂・小林千鶴
【あ、その話しちゃう?みたいな顔で(再)】トリアージX、あれ絶対面白かったよ。様式美の類って、棄却された奴(例えば古き好き西部劇とか刑事ドラマとか)を今見せられたら、その完成度にビビるみたいなことがあるわけですが、あれは絶対、捨てられたナニカの高純度な和風バイオレンスの様式美、いいよね…。なぜそこで乳、なぞそこで尻、ビキニがバイクで来て殺る、みたいな。その乳と尻がまた全部デカすぎて、そもそもおそらく乳圧が戦闘力として図られるような世界で、あの世界では乳圧が足りないと多分レイダーみたいな人々にブチ殺されてしまうと思われるのだが、そのおかげでスケは全部マブイぜ。そんで皆シャキッとしててカッコいいんだよな、最近はそういう乳と尻が好きです、ハイ。
それで最終話の十話が最高なのは、どう考えても打ち切り感マックスな前半の温泉回風の総集編と「悪は倒されてないので今日も俺たちは忙しいぜ…」みたいな感じで後半にはカーチェイスで小悪党を倒す。そしてエピローグなのだが、なぜか主人公がヒロインのビキニバイク女に拾ってもらわず、EDを歌うデュエットの片割れのちょっと寂しいソロバージョンの曲と共に、封鎖されて車の通らない寂しい高速道路を、終電逃した人みたいにてくてく歩いて帰るんですよ。しかもその映像に「何も解決なんかしていない」とか赤羽P声の主人公が言ってしまう。ここの確信に満ちた映像がもう有無を言わせんわけで、「俺たちはやれることをやりきった、誰にも打ち切りだとかカドカワ特有の十話構成の犠牲者だとか言わせねぇ」と言わんばかりの自身に満ちた足取りの帰宅なんですよ。だって普通なら、何か次回につなげる雰囲気とか、「実は不完全燃焼だったんですよ〜」みたいな匂わせ方するよ。だから、凄い。面白かったしね。そして僕が大好きなOPの歌詞の一番もここに残しておきます。
triage / 藏合紗恵子
作詞&作曲&編曲:流田Project
風のように切り裂いて
その命燃やしてる
加速するスピードは
限りなくゼロに近づいた
そんなの一瞬で簡単に奪って
止まる鼓動に背を向け歌う
今、死の選別を
嘆きの銃口を
永久の空に向けて
妖艶な体に使い捨ての魂
限界迫られた生死のトリアージ
愛なき死のゲームに突き動かされて
花びら舞うように美しく
その胸撃ちぬいて
いいよね…
グリザイアの迷宮
特別編 「カプリスの繭0」
脚本 高橋竜也 絵コンテ 阿倍孝雄 総作画監督 渡辺明夫 桂憲一郎 高澤美佳 米澤優
グリザイアは、例の特殊な映画版のサイズのフィルムを取るためにかなり難儀したらしいんだが、妙な映画の直訳風の展開と鼻につく台詞回しとあいまって不思議な代物になっていた。まぁそれにしても、ハリウッド的な戦争映画、スパイ映画の雰囲気とエロゲー的なドロドロヒューマンドラマを調合した結果、ムチャクチャ安っぽい学生制作のジュブナイルドラマみたいになってしまったグリザイアの迷宮は、「どこまで本気でやってるのかはわからない」という点では魅力的だった。例えると、江戸時代の絵師さまが中世の肖像画にあこがれて、必死に墨汁と炭でそれを再現しようとした感じで、熱気を感じさせた。というか、米国産のスパイアクションとか戦争巨編をキャラ物として切り取るとあぁなってくるのかな?
あとこの作品全般の主人公キャラとしての風見雄二がこの特別編を通してとても魅力的な人間に変わったのは、一期でヒロイン救済マシーンとして七面六臂の活躍をした彼が悪魔のような人間たち(この露悪的な味付けな)にしごかれて鍛えられたって背景が明かされて、どうも尊敬と同情が入り混じってしまったんだろう。「守りたい、この笑顔」みたいな奴。 話は本当に全般的に映画の見過ぎっていうか、映画に憧れた作家が書いたんだろうなって感じでリアリティは無いんだけど、でもそれが胸の奥がすーすーして好きなんだよなぁ(良いとか悪いとかでなく好き)。どうも今年は不思議な作品に愛着を抱いていたと思う。そういう見方ってやっぱだらしないか?
第四話「ウニクレソン」
脚本 清水恵 絵コンテ:山岡実 演出:山岡実 作画監督:中小路佳殻
この最初の三秒が…って話しましたっけ?(した)原作にはない絵なんですが、導入として結婚式に参加してたのが人目でわかる絵、それ以上なんですよね。いや、何度見てもすげぇな〜これ。ケーキ入刀のピークの折に、みんな写真手前の入刀をカメラで撮ってるんだけど、皆どうもケーキの方を撮ってて、まぁそんなもんだよなぁと。そんでワカコもそれを見てるんだが、シャンパンのグラス持ってるし、身体が横に半身になってて、酒飲みのだらしなさが伝わる。その一方で「あたしはそういう話ないけど一人飲みが楽しいのでな…」という達観も伺えて。またそれほど懇意ではない人の結婚式だったことが、新郎新婦の目線が入っていないことから伝わるが、更にここにワカコにパンフォーカスが入って、入刀を終えて急速に冷めて、帰りの飲みに気持ちが傾いてくのがわかるという、三秒でやれることをやりきったというそういうカットでした。内容も食レポっぽくあるのだが、一般的なやり方に対して「オツな飲み方」を用意していくワカコのスタイル、シブいねぇ…まったくおたくシブいぜ…。あと食道楽アニメにしてはきっちり制作の工程が描かれてて、このあとで作る人の立場も担保されてて良いのではないでしょうか。
全てがFになる
第一話 「白い面会」
脚本:大野敏哉 絵コンテ:神戸守 演出:黒木美幸 作画監督:近藤圭一・栗原優
正直演出が核になるネタだから、撮ったら賛否両論間違いないと思ってたけど、1話は部屋の微細に言った描写、煙草の吸い方から部屋での振る舞い方(鏡の近くで軽く身体を伸ばす)、ほとんどが的確な情報量の配置で間違いのない作品だと思った。シリーズの後半はまぁダレてたというか、落ち着いて撮れなくなってたぽい。白塗りの遠近感に乏しい空間が多くなったからかな。あとOPのロトスコープで撮った、線を散らすように動く身体をグリッド上に配置するというのはなかなか皮肉が効いてて好きだし、OP製作者が言ったように内容に全く関係がないというわけではない。
(アニメーション分析っぽい話だが)本編は統御された繰り返しの身体の動き、煙草を吸ったり灰を落とす動きとかが強くて、多分劇団四季みたいなのが好きなんだろうなという感じ。演技付けも大げさだし。その意味ではOPの創作ダンスは、ある種の動きの総体としての電子的な観測例だとも捉えられるし、だから関係がないという形で関係がある、と。統御された日常の動きの反復に対して、それを逸脱していくような電子状の不定形(アンフォルメル)の動きというのが、私は好きです。
それからこれを開き直りと言っていいのか、結構止まってる絵を煙草の煙とかチラつきエフェクトの説得力で持たせるのは意欲的だ。割りと真面目に見てたつもりだけど、後半ダレたのは俺のほうだったか?
ヤング・ブラックジャック
第七話 「苦痛なき革命 その1」
脚本:金春智子 絵コンテ:東海林真一 演出:東海林真一 作画監督:青木一紀、清水健一、千葉茂.
OPの裸に鎖と耽美色が強すぎる絵で、完全にゲテ物だと思ってたら化かされたという作品で、何とブラックジャックの過去を扱うにあたり、時代背景として六十年代の政治社会問題に重点的に扱った結果、守銭奴で保守的だったはずのブラックジャックが、超意識高い活動家になっていたのですよ…。(ただ安保闘争に対してはニヒルな辺りがバランス感覚に富んでるのだが)
でもムチャな設定に見えてドラマが丁寧だったので、気づくと毎回かなり入れ込んで見ていた。これは中でも出色の一本だと思うのだが、ブラックジャックが研修に来てるシカゴの病院に、吉野裕行が充てる黒人の無痛症の男が入ってきて、彼は過激な運動に果敢に立ち向かう姿を讃えられて重症を負いながらも黒人に勇気を与えてたんですが、医者の恋人に無痛症を見ぬかれて治療を迫られた所、「この不当な痛みに黒人は耐えてきた。この痛みは嘘なんかじゃない、そう、俺は痛いんだ、俺たちは痛いんだ…!」と豪語するその凄みでオーイオイとかなり涙ちょちょ切れてたんですが、その後に、「あの男の身体をマトモにしなきゃ〜」みたいなことをYBJの連れのスケが言った所に、明らかに精神的に自分を重ねて肩入れしちゃってるブラックジャックが「今のジョニーは十分マトモさ!!」って言って、お前…それは熱すぎるっしょ〜…とドボドボ泣いてしまったのね、アタイ…。
映像としてですが、モダナイズされたブラックジャックがかなり愛嬌があるイケメンという感じで、何度見ても気持ちがいい顔というのは発明だと思う。一方で他のキャラはかなり手塚準拠というか元ネタがあるらしく、割りと顔が固いので異様な雰囲気があった。
Charlotte
第二話「絶望の旋律」
絵コンテ:浅井義之 演出:太田知章 作画監督: 鈴木理沙・市原圭子・杉光 登.
全体の話とキャラは、「んーまぁ、いいんじゃないですかぁ〜…」という感じで。でも僕は11話でいきなり中国人の殺し屋集団が出てくるのは、結構アップストリーム文学っぽくて面白いと思ったが黙っていた。
誰も指摘してない気がするが、光の入り方と空間が贅沢な作品で、立体的な構造の中に光が入る絵なんかひどく芸術的で、作品の外枠を埋めるどころか、格調まで与えてしまってる。この話はそれが惜しみなく発揮されてて、何度か見た。
こういう何気ない絵にも画面深度は勿論、光の反射と透過が入ってるのが細かい。注目はやっぱり光源の反射や透過と直接の照り返しを分けてるところでしょうか。
こんぐらい気合入れた演出、京アニもやるよって指摘はありえるんですが、内容との兼ね合いで良く働いてるのはこっちだという話です。つまり底がないように見える…そこが内容、という感じで…どうだろうか…(小声)
響け!ユーフォニアム
第八話 「おまつりトライアングル」
脚本=花田十輝 絵コンテ・演出=藤田春香 作画監督=秋竹斉一
そうです、山に登って女二人でぬっちゃくっちゃとはしたなくまぐわる、あの回ですが、山は夢診断おじさん的には男根の象徴だそうですね、あれ?
これ、「魔の山」的なジュブナイルっていうか、オリュンポス山とかそういう感じでしたね。山に登って巫女がトランス状態になって秘儀を授けるって感じの。百合の秘儀、これね、この秘儀は山の上に登らないと授けられないとか絶対そんな感じだよね、「地面が星空みたいだ〜」(久美子)とか「お祭りの日に山に登るなんて馬鹿なこと、他の人達はしないよね?」(麗奈)とか、あと裸足になるし。むしろ神話のメタファーですよ。多分あのフラれた男も低地で唐突に告げたからで、山に登ればよかったんですよね〜…というわけでもなく、実際は祭だって十分にトランス状態の場なので確変チャンスなのですが、多分本当に駄目だったわけで。一方であの二人が山の上で練習した曲は「愛を見つけた場所」だし…(この手のスポットは挿話で「あそこで告ると絶対に恋が叶うらしいよ…」みたいな導入があっても然りなんですが、そこまであざとくはなかったのか)
見返してみると麗奈はめちゃくちゃ個性的な価値感をお持ちの方奴〜wだし、久美子は久美子でついに明かされる天才の独創的な世界に圧倒されてる感じだし、一方は山に登ってハイになってたんでしょうな。(あっ、「私イタいのが好き」ってやっぱりそういう意味か)
でも性格悪い同士の百合カプっていいよね…というのは「人類は衰退しました」の私ちゃん×Yできっちりエビデンスが取れてますからね。あれも秘密の部屋の中で、かなり秘儀伝承的だったな。
当然クリスマスイブにこれを見た結果、血の涙を流しながらFallout4でサイコをキメた後、世紀末覇王ばりにスレッジハンマーで一般人をぶっ殺して周りました。メリー糞して寝ます。
十九話「If you're lost, let's sing aloud!」
絵コンテ・演出・作監:赤井俊文
コンテ担当者毎の構図上の伝言ゲームは最初は刺激的だったが、後半はあざとすぎて自家発電だゾイ…と思ってきたりしたモバマス。内容は広告は大作巨編風の割に小回りを聴かせてたというか、視聴者に餌を投げてた感じだった。後々考えるとこの方策で単に成功したのがモバマスで、失敗したのが艦これだっただけの話か。最終話もまぁ穏当に終わった一方、大作巨編風のスペクタクルを期待してた層が少しじれてた印象。
んで、あのブレイクスルーになった四話と同様、絵コンテ演出作監全部、赤井俊文がやっちゃった回。四話はアニマスの1話の翻案でキャラ紹介の側面が強かったが、この回はな…、最後のライブシーンですよね…あの…尊い〜(耐え切れずという面持ちで崩れ落ちる)
いや、最後だけ良いというより、解放までの緊張感、お互いを慮ってるがゆえにすれ違ってしまう二人の思惑の交差を、先輩のナツキチが最後は取り持っていく。だりみくの関係も、ユーフォニアムのドロリ濃厚ピーチ味みたいな百合じゃなく、三ツ矢サイダーみたいな百合です。それに最後に個人ライブでギター伴奏で独唱なんて、男の子がやられてしまうアレですよ。撮り方もね、ライトがギンギラでオアシスのPVみたいでカッコいいんだよね。そしてそれを眺めるみくの目が「あぁコイツ立派な大人になっちゃったんだな〜」って憧れる目なの!!!それにだりーなが手を伸ばして!!!みくがめっちゃ嬉しそうに!!!ッア!!!!!!
あと最後のナツキチの美城常務に担架切ったあと、エレベーターで降りていく辺りは「progress」が流れてもいい感じです。
それと赤井サンってこういう構図好きだよな…という話をちょっとしようと思ったらヤバイスロットみたいになってしまった。
終わり。
余談
お気づきかもしれないがあまり良く出来たアニメに何か言おうと思わなかったりします。血界戦線とかワンパンマンとかはまぁ、物量で押すアニメなんで…、あとレーカン!とえとたまは話単位で触れるポイントがなかったが触れたかった。良いアニメです。
それでは最後はこの画像で締めくくらせて頂きます。
こら!!ROMだけでずるいぞ!!君も書きなよ!
良いお年を。