巻き込み型アニメを問う 新海誠の背景の仕組み
さて、先日高畑勲に関してこういう(http://d.hatena.ne.jp/kingfish/20140505)記事が新海誠批判の基点として掘り出されて、「巻き込み型アニメ」としての新海誠を問うような論調を先程見かけた。それに関して、少し思い出したことがあったので随筆する。
先にいっておくが、これはほとんど「君の名は。」があんだけ売れてしまい、しかも新海誠から童貞臭さが抜けてしまったので、その腹いせに文字通り朝飯前の時間にシコシコやっているだけで、「秒速5センチメートル」という作品に費やされるべき紙幅を折りたたんで展開される、愛ある嫉妬の文章だと受け取って欲しい。そもそもただ売れているだけの作品にミソつけるのはクソ野郎だし、最後に山崎まさよしを流さなかったことを恨んでるわけじゃないんですよ、本当に。
さて、このインタビューの指摘の中で、高畑勲が提起する「巻き込み型」という言葉に正しい注釈がされていなかったように思われるが、要するにそれは、「作品中の運動が、そのまま聴衆の評価を翻弄するような形で密かに織り込んでいく」運動だ。高畑勲が触れた新海誠の「青年だまし」というのは、こう表現される。
要するに、作者はみずから作り手になることによって見事に「そういう世界から卒業・脱出しないまま、それでも現実を生きる」ことに成功した一人であり、「卒業」や「自分の非成長の確認」をしたくない若者に支持され、その現象全体を情報メディア産業(とは何のことか分からないが)推進派の脳天気なおじさんたちが追認したのだと思われる。
つまり、ここでは作り手の情報が聴衆の評価を一気に織り込んでいく巻き込み、として機能する。パラリンピックみたいなものだ。ある種の人たちにとって、見る前から評価が決まっている。すごい、一人で「こんなにできるなんて」。五分もあればあとは最後に立ち上がって拍手するまで尻が収まらなくなる。そしてそれは客観的な作品の評価を不可能にする、というわけだ。なぜなら
こういう映像を見ていくら「勇気をもらっ」たつもりになっても、現実を生きていくためのイメージトレーニングにはならないことは当然である。それどころか、[成功している素晴らしい自分という]きわめて有害なイメージを身につける危険性がある。
まぁ補足しておくと、とある時代の人にとって、一つの作品とそれが放り込まれる社会は常にミッシングリンクを保っていて、劇場やビデオデッキの中で完全に閉じられた余興としての映像が蔓延することに常にある種の懸念を表明する必要がある、というわけだ。
しかし「巻き込み型」自体の運動に関して僕が言いたいことはすこし違う。新海誠作品における「背景」についてだ。これはバックグラウンドという意味ではなく、文字通り美術としての「背景」。新海誠の作品世界を表現する時、しばしば徴用されるが、しかしそれが「美しい」という言葉以外で表現されているのをほとんど見たことがないのが残念でならない。
彼の背景を僕は「ラッセン型」および「ドムホルンリンクル型」と理解している。この2つの型を参照すると、なんだかわからないがとにかくすごい新海誠世界の背景について少し考察を及ぼすことができるかもしれない。
先に「ラッセン型」。これよ、これこれ。
こういうとにかくシャイニーでキッチュでファタズマゴリーな絵を見たこと無い人はそういない気がする。ところでラッセンの絵があれだけ日本で話題になったにも関わらず、実は欧米では誰も知らないという事実をご存知か。(ちなみに実家にも本人がサインを入れた奴が一枚ある。)
ラッセンがあれだけ日本で売れた理由は謎に包まれているし批評の介入する余地はあるのだが、ラッセン自体のイリュージョン的な特徴は列挙することができる。
①なんか七色の世界がとにかくキッチュ
②空の中にイルカが飛んでたりしてどこか非幻想的
③特に紫色がやたら強い。必ず入ってる
さて、①七色の空、これは新海誠がよく虹やレンズフレアを入れることでしばしば達成される。「君の名は。」では彗星だったが。これだけでかなり画面にイリュージョンが発生していることがわかるだろう。虹を見れて「やったぜラッキー」ぐらいの話だが。
②でも流石に空に非現実的なものを写し込むと世界観が崩れるので、二番はやってない(と思う)。とはいえpixivのデイリーランキングではまぁよく見つかるから時間があったら君も探してみよう(読者参加型企画)
③そこで、最後の部分に着目しよう。紫色はデジタルの盲目と呼ばれ、虹の最も内側の色であることからも分かるように可視光の中で最も短い(大体380〜430nm)波長の光であり、映像の中では特別に加工しない限りほとんど出てこない。つまり、我々が普段見ているにも関わらず、カメラが取り逃がしやすい色なのだ。だからこそ、インスタグラムの加工アプリで補うだけで、あれだけ幻想的な雰囲気になりみんな夢中になるし、紫の入ったリアルな映像というのは、それだけで迫真のリアリティを獲得してしまうのだ。下の背景の右上の紫を隠してみると、案外イリュージョンが低減されることにお気づきだろうか。
新海誠以降、お前目がいかれたんじゃねぇのかってぐらい紫色した背景が、特に低予算アニメでやたら強調され、雰囲気が良くなったという事例もある。甚だしきは「ねらわれた学園」で、目が痛くなるぐらい眩しい紫色を一時間半拝むことができる。(東大卒の中村亮介監督は多分そういう細かい巻き込み効果みたいなのを全部意図してやってるので好きじゃないんだよな)
やりすぎ。
次に、「ドムホルンリンクル」型。ドムホルンリンクルのCMをご覧になったことがあるだろうか。
この映像の中で、ドムホルンリンクルは精密な機械と手作業が交互に重なり合い、いくつもの重要な工程を経て消費者の手に届く、その過程がドラマチックに描写される。ここではその商品を使ってどんな効果が得られるかが重要なのではない。ただ、その商品が手元に届くまでにどれだけ複雑な過程を経てきたかどうか、そしてそれがCMの中で描かれるとき、機械の非常に繊細な動きのクローズアップや、作り手の真剣な眼差し、正確で狂いのない手元などひたすら「細部」が強調される。すると、この映像は密かな等号を用意し始める。この映像の中でこれだけ「細部」が描かれているのだから、細部の凝縮した映像であるこのCMは素晴らしいものだし、翻ってドムホルンリンクルという商品はとにかく質が高いものなのだろう。(なにしろ)これだけ凝った過程を経て我々の手に届くのだから、映像を見るだけで、もうすぐ自分の手に最高の瞬間が届く、その快感に酔ってしまうことだろう。
このように、細部の凝縮にはそれだけで人を酔わせる性質があり、そのようなカットを連続させるだけで、観客の価値判断を「巻き込んで」用意に作品自体の価値を獲得してしまう。言の葉の庭の最初の数分を見てみよう、葉が雫を垂らし、水面に落ちる音、それら縮減された日常の細かい瞬間のクローズアップを繰り返すだけで、人は簡単に酔ってしまう。それらは端的に言えば強烈なドラッグであり、価値判断を抜きにしてひたすら気持ちよくなってしまうし、それのみならず作品が外に開かれなくても、円盤の中に細部が凝縮しているフェティッシュの所有のために、人は容易に諸手を挙げて賞賛し、円盤を買ったり映画館に足を運んでてしまうわけだ。
「新海アニメの風景描写は大好き
雨とか池の水の表現だけで満足できるレベル
やってることは平凡な短編青春小説のレベルなのになぜか好きだわ」(どっかで拾ってきた人の感想)
最新作の「君の名は」においても、細かい手元や異常なほど書き込まれた背景の描写が連続して、見るものを圧倒する。しかし確かにそこには語るべきメッセージはなく、語る内容の語られるべき価値ばかりが、その語り方によって語られる前に無限に増幅していく。しかしそれだけお膳立てされると、語られ方は語る内容に対して無尽蔵に拡大し続けていく。しかし最初の高畑の発言がまえぶれているように、それは「勇気をもらった」「良い映画を見た」気持ちにさせる機械であって、ここの感想を掘り返すと、どうして良い映画だったのかわからない。要するに映画が自らを良い映画だと宣伝し続ける、その一時間半の広告が存在するとき、観衆はそこに感想を挟む余地もなく、ただ圧倒されることしかできない。だから、「巻き込み」型という言葉には、単なるセンチメンタルとは別の形で、現代の多くの映画が持つ細部のフェティッシュの暴走という意味を含んでいる。高畑勲が「ほしのこえ」を見て危惧したのは、むしろこちらなんじゃないでしょうかと提起したいわけだ。
ちなみに最後になるけど僕は「秒速5センチメートル」の脚本は素晴らしい循環性を持っていると思うので、さきほどの感想にもいつか異論を挟みたい。
ニーチェ省察 三
「博学な書物を前に」
「われわれは、書物に囲まれ、書物に尻を叩かれてようやく思考を始めるといった連中とは一線を画す。われわれはいつも、外気の中で思考する。ーー歩いたり、飛び跳ねたり、登ったり、踊ったりしながら、一番好ましいのは、寂寞たる山嶺や海辺で思考すること、道そのものさえ思索に耽る、そんな場所で考えることである。書物や人間や音楽の価値を問うためにまず尋ねるべきは、こういう問いだーー「それは歩くことができるか? それにもまして、踊ることができるか?」……。
われわれは稀にしか書物を読まないが、だからといって読み方が下手になってしまうわけではない。ーーわれわれは、ある者が自分の思考にどのようにたどり着いたかを、なんと迅速に見ぬいてしまうことか。彼は座り込んで、インク壺を前に、腹部を圧迫死、頭を紙面にうずめているのではないか。そんな彼の書物を、われわれはなんと早々と見捨ててしまうことか!そこには締め付けられた臓腑が透けて見えるようだ。同時に、賭けてもいいが、そこには書斎の空気や書斎の天井、書斎の息苦しさも感じ取れてしまう。ーー誠実で博学な書物を閉じる時、私はこのように感じた。謝意を偉大、深く感謝しながらも、肩の荷が降りたような気持ちだった……。
学者の書物には、おおむねいつも何かしら圧迫するもの、圧迫されたものがある。「専門家」がどこかで顔を覗かせる。専門家への熱意、生真面目さ、憤懣が、そして彼が座り込んで思考を紡いでいる狭い分野への過大評価が、彼の猫背がーー専門家というのは決まって猫背であるーー姿を表す。学者の書物はいつでも、歪んだ魂を反映している。いかなる専門職も魂を歪めてしまうのだ。青年時代を共に過ごした友人と、彼らがひとかどの学問を修めたあかつきに再会したとしよう。哀しいかな、なんと見違えるような姿になっていることか! いまや彼ら自身がいかに学問の虜となり、学問にとりつかれてしまっていることだろう! 自分の狭い領域にしがみつき、見分けがつかないほど押しつぶされ、ぎこちなく、均衡を失い、やせ細り、一面節くれ立ち、ただ一か所だけが見事に丸みを帯びている。ーーそんな彼らに出会うと、唖然として言葉を失ってしまう。あらゆる専門職は、たとえそれが黄金の鉱床をもっていても、頭上に鉛の蓋が覆いかぶさり、それが魂を嫌というほど圧迫するため、ついに魂は畸形で歪んだ姿と化してしまう。これはどうしようのないことだ。こうした畸形を、何らかの教育手段によって回避しようなどと考えても無駄である。いかなる分野の達人になるにも高くつく。ーーこの世では何事も高くつくものだ。専門家は、自分の専門の犠牲になるといった対価を払って専門家となる。
しかし(一方で)諸君はそれと違ったやり方を望んでいるーー「安上がりに」とりわけもっと手軽にーー。そうではないか?同時代の諸君よ。ならば、それもよかろう!だがそうなると、諸君はただちにまったく別のものを手に入れることになるだろう。専門職の達人や巨匠の代わりに、文筆家を、器用で「多芸多才な」文筆家を手にすることになるのだ。もちろん彼らは猫背とは無縁の人種である。ーー彼らが精神の販売員や教養の「配達人」として、諸君にむかってお辞儀をするときの猫背を除くなら。
ーー彼らは本来は何ものでもないのに、あたかもすべてを「代表」し、事情通を演じ、その「代理」をつとめて、その対価として謝金を受け取り、敬意を払われ、賞賛されるといったことを、もっともらしく引き受けたりする。ーーいやはや、専門家の学識を具えたわが友人たちよ!私は諸君を祝福したいーーその猫背ゆえに!また諸君が私と同じく文筆家たちや教養の寄生者たちを軽蔑する点でも!そして諸君が、精神を売り物にするすべをしらないがゆえに!金銭的価値で表せない見識ばかりを抱いているがゆえに!そして自分の本領でないものの代理をつとめたりはしないがゆえに!諸君の唯一の願いが、自分の専門職の巨匠となることであるがゆえに!ーーあらゆる至芸や手腕に畏敬をいだき、学問と芸術におけるあらゆるあらゆる見掛け倒し、半可通、虚飾、腕立者(ヴィトルオーゾ)、扇情的なもの、俳優的なものーー要は、研鑽と予備訓練の揺るぎない手堅さを諸君の目の前で証明することができないもの一切ーーを容赦なく拒絶するがゆえに!」
今日、専門家はパフォーマンスを発揮して往来を練り歩く知識人=批評家に対してますます劣勢を期している。ツァラトゥストラに出てきたあの「ヒルの専門家」のように、ある分野にとことん通い詰める者は、その専門性が持つ重さを身内に受けて猫背になるほかない。
しかしこの反対にもっと理想的で自由なパフォーマンスが存在するわけではなく、世間には諸処の専門家を模倣して足しげくそれらを代表するような顔をした論者、つまりいわゆる批評家のような人間たちがいるだけである。確かに前者のあまりにも厭わしい変形は避けがたい。しかし多くの人は何かを専門として、その重さを引き受けることなしには、何事も真に達成することはできない。これを省略して、半可通であちこちに顔を出して手軽な見解を配る「知識人」にこそ警戒するべきで、この点で専門家は確かに気高い。だがそれは隠者や狂人の凄みであり、依然として自然の仮像を受け入れるには重すぎるのだ。
ニーチェは専門家にも敬意は称しても、われわれ(ニーチェは過去や未来に自分と並び立つ者をこう称する)はそうではないと考えている。それにしても、専門家の重苦しさを如何としたものか。「われわれもまた、おおむね学者であることは否めないところではあるが。しかしわれわれは、学者とは別の欲求、別の成長、別の消化をする存在である。」これがどれほどの誤解を生むのか、想像に難くはない。
かような次第で、ニーチェはやはり読みにくい。私が思うに、いかなる理由であれ、傷ついた状態にある人は、ニーチェにあるがままの自分の形式の肯定や、あるいはニーチェ自身に理想的な人間像を求めて本を開くべきではない。なぜならこれは誰に対しても開かれた思考ではないし、聖書のような癒やし=解決(納得、説明、理解、反動的な肯定)の書物ではないので、負傷した状態の人間がニーチェを読んでも、この門は私には開かれてはいないと気づくだけで、むしろ傷を深くするか、最悪ニーチェに対して怨みを抱くだけだろう(そして彼はもっと手軽な信仰を求めて彷徨い始める)。
むしろ余裕があり、自分が最初は徹底的に居場所のなく、しかも自分はどうするべきなのかも簡単には与えられないということと向き合えるときの人間が、つまり誤解を避けない人間が、読み進めることができる。(とはいえ、私はこの傷つかない鋼の精神も、ニーチェの再読を通せば「誰にでも」ーーこの言葉に含みがあることはご存知だろうがーー獲得されると考えている。)
例えばニーチェは弱者に一様に厳しく、彼らはいずれ淘汰されるべきだという意志を貫いている。そしてそのことに関する多くの誤解を避けようとはしない。だが、今やこれを誤読したまま、悪用しようとした人間が現れた以上、我々はエクスキューズとも向き合う必要がある。
この弱者とは一般的な意味での身体的・精神的弱者、あるいは社会的弱者を意味するものではないし、いわゆる強者とは全く異なるものだ。そもそも現代において、強者は潜在し息を潜める中、弱者が満ち、強者が飛び跳ねたりしないよう抑制される社会なので、強者はむしろ自らの勝利しか知らない、社会的な弱者であり、一方で弱者は彼らの生きる現代の勝利を確信した、弱者の徳の中での強者である。
ここで、私はニーチェほどの強者でないので、この弱者と強者という言葉の中に既に多くの人が生理的な反感を抱くことに気づけてしまうし、あまつさえ、歴史の中のあまりにあからさまな奴隷制や階級制度への回帰をニーチェが推奨しているのだとすら考えることだろう。このように読み取ることへのあまりに自然な流れの強要こそ、我々の解釈の持つ能力に覆いかぶさる現代性を暗に表している。この生理的なレベルにまで高められた強者への反感の念こそ、パウロ=ローマ・カトリックが用意した疚しい良心の大仕掛けである。
(ところでニーチェはキリスト教は否定してキリスト自身はブッタのような受動的ニヒリズムの人であったと捉えている。「聖パウロによって異教的神秘説へと歪められ変形されて、最後には全政治的組織を味方につけ…、また戦争をすること、非難すること、拷問すること、誓約すること、憎悪することを学ぶのである。」)
確かに未来において強者は勝利に向かうだろうが、それは支配的な弱者のルールを破壊するという意味であり、逆に弱者が侠者のルールの中で生きることを意味する。ここでも念を押すが、「経済的強者や知的階級が強者であるなどとニーチェが言うわけがない」と知りながら、我々の臆病な思考は、ではもはや倫理などない無法の時代に回帰するのか、と懐疑を持つだろう。然り、各々が価値を創出し、世界を解釈するためには、この平準化された人間像を迫る倫理こそ最大の問題であり、怨敵である。
追記
「われわれの友へ」の中にはこのような記述がある。
「きまじめな平和主義者というのはたんに、おのれの卑劣さを理性的に直視しない人間である。かれは自分が相手どって戦っているつもりの現象の本性について、二度もとりちがえをおかしている。戦争は武力衝突にも殺戮にも還元されないばかりか、かれが賛美する集会政治の母体そのものなのである。」
「多種多様な諸世界が存在し、生の形態が厳然たる複数性に裏打ちされている以上、戦争とは大地における共存の法にほかならない。というのも、それらの出会いの顛末を予測させてくれるものはなにもないのだから。対立は、たがいに隔たったままの諸世界では生じ得ない。われわれは、葛藤をはらんだ諸力の遊動なのであり、そこからあいついで浮上する布置はせいぜいつかのまの均衡状態を示すにすぎない。そうである以上、戦争は現前するものの素地そのものである。」
ニーチェ省察 二
「真理はつねに本質として、神として、最高の審級として立てられてきた。…しかし、真理への意志は批判を必要とする。ーーそこでわれわれの課題を規定しておこうーー試みに一度は真理の価値を問題にしなければならない、と」
それゆえ、カントは最後の古典的哲学者である。彼はけっして真理の価値も、われわれの真実への従属も問題にしない。この点については、彼もほかの人と同じように独断的である。彼も他の同様に独断的である。彼も他の人々も、次のようには問わない。誰が真理を探求するのか。つまり、真理を探求する者は何を意志するのか。彼の類型、彼の力能の意志はいかなるものであるのか、と。哲学のこの不十分さの本性を理解する試みをしてみよう。誰もがよく知っているように、人間は実際にはめったに真理など探求しない。われわれの関心も、同様にわれわれの愚かさも、われわれの誤謬よりもいっそうわれわれを真実から引き離している。しかし哲学者たちは、思考である限りの思考は真実を探求し、「権利上」真実を愛し、「権利上」真実を意志する、と主張する。思考と真理の間に権利上の結びつけを設定するにも関わらず、哲学は真理を、哲学自身の意志であるような在る具体的意志に、諸力の或る類型に、力能の意志の或る質に関係づけることを避けるのである。ニーチェはこの問題を、それが置かれている場所で引き受ける。彼にとっては、真理への意志を疑うことは問題ではなく、人間は実際には真理など愛していないということをもう一度想起させることも問題ではない。ニーチェが問うのは、概念としての真理が意味しているものであり、この概念が権利上どんな形質化された諸力と意志とを前提しているかである。ニーチェは、真理に対する誤った要求ではなく、真理そのもの、理想としての真理を批判するのだ。ニーチェの方法にしたがって、真理の概念をドラマ化しなければならない。
「真実への意志、これはわれわれを幾多の危険な冒険へ誘うことであろう。この有名な誠実さについては、すべての哲学者はつねに敬虔な気持ちで語ってきた。なんと多くの問題をこの真実への意志はわれわれに課してきたことか! …われわれのうちのいったい何が、真理を見出そうと意志しているのか。実際われわれは、この意志の起源の問題の前に久しく佇んできた。そして結局、われわれは、さらにより根本的な一つの問題の前で完全に歩みをとめてしまった。…われわれが真実を意志することを認めるとしても、ではなぜ、むしろ非ー真実を意志しないのか。あるいは不確実を。あるいは無知さえも。…では、このことを信じられるだろうか。結局、この問題はこれまで決して提起されたことがなく、それはわれわれによって初めて見ぬかれ、注目され、断行されるように思われる。」
(G・ドゥルーズ 「ニーチェと哲学」江川隆男訳)
真理自体の価値など必要ない。真理が問いに立たされることは、真理自体の導きの中にある。というのも、まず不定の真理を探せば、みんなその真理に従っていることがわかるはずで、真理への意志も発見されたこの真理の中で語られることだろう。カントはこの点において誤っていた。ニーチェは此れに対して真理を求める意志を要請することで、カントより前に問いを設定した。「そもそも真理を必要とするのは誰なのか?」
この問いはしかし、あらゆる意志を壊すアナーキズムへの回帰を意味しない。価値は不定ではないだけで、価値は批評によって別々に創造される。一見は一元性を捨てたように見える人が言う。ヘーゲルは失敗した、カントも不十分だ、ならばツァラトゥストラという多を司る彼こそ、今日から新しい神となる、これこそが否定の用意する最後の躓きである。
というのも、問われなかった真理への意志という点で改めて読み直されれば、彼らとてニーチェの語るものと同じように、素晴らしい概念の創出者達である。ただし彼らはある前提を無化したまま高度な問いを創出している。魚の釣り方を問題にするとき、餌の付け方を問う人と、釣り場の場所を問題にする人がいるように、これらは問題のレベルが異なるのだ。
とはいえ、ニーチェは彼らに対して、その編成を根底から覆えし得るような問いを創出しただけで、彼らに対して優越する(つまり真理への距離として先取した)、あるいは問いの価値を無化するところは何一つないのである。確かに、この必然として真理への意志を問わないとき、現実の欺きに対して空想の世界に真理を用意するとき、生の否定として生じることになるニヒリズムがいまや無への意志であると判明し、ニーチェの問いの中ではどうあっても袋小路に向かう。だとしても、これらは意志自体の一つのれっきとした亜流であり、彼らの意思自体は問われないままも清廉さの中にあり、それを間違った意思であるとして否定するべきだという考え方は、そもそも問いが用意した射程からは「権利上」用意できない。
ニーチェ省察 一
-p175
「高いものと高貴なものは、ニーチェによっては、能動的諸力の優越性、それらの諸力と肯定との親和性、それらの諸力の上昇傾向、それらの諸力の軽やかさを示している。低いものと下賤なものは、反動的諸力の勝利、それらの諸力と否定的なものとの親和性、それらの諸力の重苦しさあるいは鈍重さを示している。ところで多くの現象は、反動的諸力のこの鈍重な勝利を表現するものとしてのみ解釈されうる。人間的現象の事例は総じてそのようなものではないのか。反動的諸力とそれらの勝利によってしか実在することのできない諸事物がある。語ったり、感じたり、思考したりすることもできないような諸事物があり、反動的諸力に突き動かされる場合にだけ、信じることのできるような諸価値がある。ただし重く低い魂をもつ場合にだけ、とニーチェは明確に言う。誤謬の彼方には、愚劣そのものの彼方には、魂の或る下劣さがある。したがって、諸力の類型学と力能の意志の離接は、今度は諸価値の系譜ーー諸価値が高貴であるか、下劣であるかーーを規定できるような一つの批判と分離不可能であるということになる。
ーーたしかに人は、いかなる意味で、またなぜ、高貴なものは下賤なもの「より価値がある」のか、あるいは高いものは低いもの「より価値があるのかと尋ねるだろう。またいかなる権利によって、と。われわれが力能の意志をそれ自体において、あるいは抽象的に、肯定と否定という2つの反対の質を与えられたものとしての考察する限り、この問いに対して何も応えることができない。なぜ、肯定は否定よりも価値があるのだろうか。我々は後に、解決は永遠回帰の試練によってしか与えられえないということを見るだろう。つまり、「より価値があり」、また絶対的に価値があるのは、回帰するもの、回帰に耐えるもの、回帰を意志するものである。ところで、永遠回帰の試練は、反動的諸力も、否定する力能も存続させておかない。永遠回帰は否定的なものを価値変質させるのだ。永遠回帰は、重い物を或る軽やかなものにし、否定的なものを肯定の方へと移行させ、否定を肯定の力能にするのである。しかし、まさに批判とは、能動的になった破壊、肯定と深く結びついた攻撃性というこの新たな形式の元での否定である。批判は、喜びとしての破壊であり、創造者の攻撃性である。価値の創造者は、破壊者、犯罪者、批判者ーーつまり、既成の諸価値の批判者、反動的諸価値の批判者、下劣さの批判者ーーと分離出来ない。」
今日、ニーチェのような個人的な功利主義、解釈至上主義者というあり方は、思考に確信を持つことが益々困難な思考である。なぜならそのようなあり方の積極的な差異の意志は「結局、やってることは反対側の人間と『同じ』じゃないか?」という同一性への回帰を画策する者によって撹乱される。区別不可能なもの、それは常にあまりに早く同一性に接近させられる。これだけでなく、些細な筆の走り自分自身に懐疑をもたらし、本当に自分の思考はニーチェを開始しているのかと、何度も自家撞着に陥ることになる。あるいは、もっと根本的には、自らの唱える思考の形式が、形式自体の内容として矛盾してはいないのか?思考を開始するために、あるいは多くの中で価値を専横するために、自分の思考のあり方に部分的にでも背いているような有様では、その思考は正当なものではないだろう。
例えば意志そのものを意志するというあり方ーーナチ=ハイデガーが行った「力への意志」を欲望するーーではなく、意志は自らのあり方をあらゆる形で創造していく。意志にはそもそもモデルも主体性もない。しかし意志を思考し問題化するとき時、そのあり方を定まった形に収めようとするこの思考の流れに抵抗することには、今や甚大かつ細心の努力が必要になる。
そしてこのような逡巡に浴びせられる「肯定」と「否定」の二者択一の深淵は、そもそも思考を脱輪させようとするオイディプスの誘惑が(しかし本義から言えば違法ではなく、まさに多の中の一つの思考として、だが多を簒奪する征服者のやり方をもって)潜んでいるのである。
とはいえ、ニーチェは平等主義者でも博愛主義者に成り下がることはない。平等とは疚しい良心の見せかけの善性であり、ギリシャのような善さを転換するキリスト者という弱者の十字架を背うことで逆に高みへの出力を捻出した、いわば高利貸しの、絶対に自分自身のものではない道徳である。ニーチェは能動という肯定性を強く欲する。またそれは主人と奴隷の対立という対立と止揚主義、また競争主義という否定性への肯定でもないし、むしろそれらの能動的な破壊である。だが破壊スべきものが存在する時、それはまだ自由ではないだろう。
ニーチェに関するドゥルーズの多くの解釈は、ニーチェそのものに依拠するようで、そこから発しながら最後には決定的に彼に依拠していない。言ってみればこれは彼が意志する(そう合って欲しい、そうあるべきだ)ニーチェであり、ニーチェ自身ではなく彼から由来する力能について、ドゥルーズ自身が語っている。そこにはヘーゲルのような、「◯◯において」というごまかしはない、これは彼と、しかしその最初から彼だけのものではない)ニーチェが共に向かう方向である。ところでこのような方法こそ、まさにもはやニーチェ的でない場所(場所という言葉は力能の非ー定在性に反している)で、彼を忘却しながら、ニーチェの思想を反復する、永劫回帰のやり方の実践だと言えよう。
このような段階を経て、ニーチェはわれわれにとって最終的に、あるいは来るべき新しい人にとっては最初から忘れられるべき存在だと思う。ただただニーチェを開始さえすれば、快癒した人が病床の苦痛をさっぱり忘れるように、そもそも彼が何を言ったかなど何の問題でもなく当然になり、否定性は癒えるはずだ。われわれの多くの(あるいはわれわれの中に執拗に根付く)砂漠に向かった人々のイデアの苦しみは畜群の群れの無知ゆえの、最も哀れを誘う喜劇である。この逆に強い人々は最初から悲劇に向かい、一=多であるディオニュソスの傍らに在る。
ゲームレビューその2
やったゲームの感想 それほど批評的でもないし、まさにまさに雑記。またメジャーなのも多いがあしからず。
1 Ryse son of rome
エンジンこそ専用ではないが映像がただただ美しい。ただ美しいのではなく、ベン・ハーの世界を手回しカメラで移動するような喜びを感じる(酔いやすいが)。風景の中で、あるいは戦場の中で一番おいしいポイントを移動する喜びがある。いわゆるQTEが多用されているし、ゲーム性に乏しいという意見は当然あり得る。ただそれはしばしばゲームの映像が貧しい時に使われるいわば捨て台詞で、これだけ調和の取れた世界とたくましく尊敬に値する闘士に、我々が小賢しい技術を弄して介入する必要はないとすら感じる。それにしても勇壮さに寄り添った巧みな脚本が素晴らしい。
2 Portal /Portal2
ここにはカリフォルニアのスピリット、つまり卓越したインダストリアルデザインを感じる。何がいいたいのだろうか?マイクロソフトの実直さではなくアップルの柔軟性、ブラックベリーではなくIphoneである。Vaultはゲームをデザインするとはかくあるべきという姿勢を見せ、平面に対する思考を「横紙破り」に「風穴を開け」て「風通しを良く」した。物理法則の変則だけでゲームをデザインすることは、最も単純な喜びでありながら何度でも我々を驚嘆させる。同時にこれはゲーム性へのあるパロディを含有している。穴の向こうの部屋は、本当に同じ部屋なのだろうか。そして話に聞いていた通り、Gladosは本当に可愛かった。
3 borderland
僭越ながら、途中で飽きてしまったし、また今後手をつける予感がない。なるほどコミック・ワールドをジープで走って賞金稼ぎを行うGorilaz-fallout世界は魅力的だ。だが、ここにはオープンワールドとしての生気がない。そもそもキャラクターを設定して没入するはずのゲームがFPS、しかも大きな目的がないというのは致命的だ。これでは賞金稼ぎというロールをやってるのか、些末な報酬系にドライブされてるのかわからない。そして全く歴史のない荒野はディテールへの注視を巧妙に拒んでしまい、この点が失われた歴史の上にかぶさった汚染された大地という二層構造になっているFalloutのディテールとは格を隔ててしまった原因だと思われる。
4 Life is strange
最高なんだよな(オタク)そもそも批評的作品なので話しだすとめんどくさくなるので割愛。話してもネタバレだし。やれ。アメリカのスクール・カルチャーというコアに寄り添ったゲームは大体面白い。
5アンチャーテッド エルドラドの秘宝
123が入ったコレクションを買ったのでその1。これはノーティドッグの往年の名作クラッシュバンディクーの翻案、要するにジェットコースターってことでいいんじゃないか。プレイヤーをドライブさせる脚本が結構ハードなジャンプ判定とウジャウジャ湧く敵で割と阻害されてる気がするが、そもそもベリーハードまで設定してるんだから基本的に死にゲーと見て相違ない。
それにしても2007年に多くを期待するのは間違いな気がする。背景や世界観への信頼感がなく、うっかり長回しするとゲーマーを冷めさせるんじゃないかという恐怖のために、いたずらにせっつかれされてるような印象。おそらくこの問題は開けていて歩き易過ぎる空間のデザインも共有している。アナログカメラでプレイヤーの視線をデザインするということは、これと2の間で創始され始めた概念なのではないか。(余談だが邦題はインディージョーンズ風。まぁそりゃそうっすよね~)
6アンチャーテッド 黄金刀と消えた船団
いまやっている途中だが、明らかに1と違う点がいくつもある。遠景と近景の巧みな交差、つまり視線のデザインであり、ランドスケープとディテールの萌芽。1のアスレチックのジャングルジムを遊んでいた感覚とはわけが違う。明らかに世界の作り込み方が違う。例えば開けた空間に入るなら、最も魅力的な巨大建造物をカメラが中心に据えるように動く。とにかく、ここから本物の「大作」が生まれたように思う。予算というか、映像力がもうぜんぜん違う。
6 Shelter
いかにもインディーズゲームらしい一発勝負の作品。要するに食物連鎖がドラマでありそれだけですらゲームになり得ることの実験として機能しているのだが、食物連鎖にドラマを見出すのは所詮人間であり、彼らに生死に対する観想はないというところまで描くのはすこし誠実過ぎるというか、びっくりするような命の雑な扱いにしびれたりする。割と荒いポリゴンの世界も彼らの認識力の所以だとすれば何か感動を蓋ぐニヒリズムすら流れている気がする。パッケージのいかにもなほんのりヒューマニズム感よりも真面目で冷徹な作品。
5 Dead island
これもどうも手を付けるのが面倒なことが徐々に判明してきた。そもそもお使いゲームとはお使いに足るだけのサスペンスやフェティッシュな喜びが必要なのに、酔いやすいゴロゴロしたカメラで南国を彷徨う楽しみはゾンビがぶち壊しにしてくる。それにしても武器はいつでも消耗しているから逃げるしか無いのは仕方ないが、ゾンビはどこからでも襲ってくるのでせっかくの景観に対する信頼感をゲームが否定してくる。しかもゲームのシステム自体に新鮮な喜びはないとなると、壊れない強い武器を見つければ乾いた暴力衝動しか残らないわけだ。南国の楽園にゾンビが出現する、という設定の面白さを投げつける以上のワンダーを期待したかっただけかもしれない。
6 Middle-earth shadow of mordor
途中でゴラムが出てくるまで指輪物語のスピンオフだということすら知らなかったのだが、筋書きは単純な復讐物でしかも大軍を一人で崩していくという内容で割と燃える。ゲームシステムもオープンワールドというほどもない広さを個性的なシステムで無理なく反復させているし、中ボスはやり方を覚えると消化するだけにしても、序盤は同じ奴に何度もやられて名前を覚えていき、なんとしても倒してやると手管を使いはじめる過程などに独特な喜びがある。アクションも大胆ながら繊細で、アビリティの育成はほとんど一本道とはいえそれらの使い所を考えるのは楽しい。また大軍をやり過ごして大将だけ倒すという任務が多いためステルスゲーの緊張感も損なわれておらず、大作志向風のミドルクラスの雄という感じだが、マップや似通った反復が多いため多少の心残りは仕方ない。
7水着バレー(DOA EXTREME3 fortune)
神話。肉体の彼岸。
『肉体は悲しい。 ああ、読んだぞ わたしは 万巻の書を。
逃れさる! 彼方へと遁れる! その海に 百千鳥の 酔う様は
砕け散る 見知らぬ波と 天空の あわいに懸かり
引き止めはせぬ もはや何も… 眼に映る 見慣れた庭
それさえも 引き止めはせぬ 海に心が 浸るのを。
(~)出発する! 目指すはただ 異郷の果ての 大自然よ!
倦怠は 酷い希望に うちひしがれて なおも頼むか
打ち振る絹の 今を限りと 別れのしるしを!
さらばだ、マストも 違いはない、嵐を呼んで
猛り狂う 遭難の海の 風に傾く 帆柱か。
跡形も無い マストもなくて マストも豊かな 鳥影もなく……
我が心よ、されど開け、水夫たちの 歌声を聴け!』
(「海のそよ風」マラルメ)
では、
僕が水着バレーで撮った写真を貼って解散です。
なお、僕が水着バレーで撮った写真は今後も公開されます。
Steam ゲームレビュー1 ”FIREWATCH”
最近ゲームばっかしてるのでゲーム記事書いた。多分今後も書くのでその1とする。
実は次回、誌で用意してる企画が、…まぁ色々ありまして。
載せる場所もないのでブログに投げる。
Firewatch
http://store.steampowered.com/app/383870/?l=japanese (このゲームはPS4版が発売されていると聞いて、PS4しか持っていなかった僕は小躍りして探したが、なんと米国アカウントのみの販売だった。というわけで販売は事実上steamのみ。)
最近多くのゲーム会社(特にスタートアップ企業)が、ひたすら広大で凝ったマップを用意すればプレイヤーが喜んで飛び跳ねまわると思ってる。冗談じゃない!プレイヤーは全員超近視眼的なので五秒毎にタスクを思い出さないと広大なマップでとりあえず身近な人を殺しまくるという最悪の暇つぶしに興じて、しかも自分ですぐに飽きてレビューに「広いだけの糞マップ」とつける、クリオネみたいに素朴で、マンボウより精神が脆弱な人々なのだ。「全部自由にやらせてくれよ!」の類いの請願を真に受けるとそうなる。そしてこの問題に関して、このゲームはとてもクリアな解答を用意したと思う。
いくらかの選択肢を交えながら叙情的に主人公ボブの経緯を語り終えたあと、君は森林火災監視員に就任して、普段は高い木組みの塔の上で生活しながら、時にトランシーバーの向こうの女性の指示を受けて、森の向こうの不審な火元や花火の類いを発見する。そしてそれを確認したり消したりするために地階に降りて、鬱蒼とした森の中を行ったり来たりすることになる。
しかし、下に降りるともうその火元が見えないし、もうどっちの方角で火が上がってたのもわからなくなる。そこで君はついに(億劫で)(嫌々ながら)地図とコンパスを使う。このキーボード配置が若干遠くに在るので、実際何度も出したり仕舞ったりするのは超面倒。しかも出してる間は走れない。
地図にはあたりをつけた場所が勿論乗っている。だが地図は地図なので、自分が見ている方向との照応性はない。なのでコンパスと突き合わせながら方向を正して、改めて周りの地形と照らし合わせなければならない。それから景色を見渡しながら、さっきみた地図の記憶を頼りにおずおずと進む。だが、森は濃くてランドマークもない。地図を逐一確認しないと、君は行き先を見失って間違ったまま道を突き進んで、すぐ自分がどこにいるかもわからなくなり、泣きながらさっきの道を戻ることになる。どう考えても最悪に不便で不快な経験だ、普段ならば。
だがこのゲームの最もエキサイティングな経験、それは迷うことだ。
なぜなら現実の世界で迷うことを「自分から」望むのは難しい。そもそも目的がなければ迷わないので散歩とも違う。迷うというのは間違った道を進むことだから、当然普段から迷ってばかりではいられない。目的があって迷うことが出来ても、「何時に◯◯へ…」のような時間的な条件があれば、目的地から遠ざかったりすればもはや精神の余裕は全く無いし、間違いなくパニックになる。
その点このゲームは、最高に望ましい形で迷うことができる。時間はたっぷりある。君はいい景色があったら使い捨てカメラで撮ってもいい(この使い捨てというのが実に良い、実質20枚程度しか撮れないから、必然的に撮るべき景色を良く考えることになる)し、地図とコンパスを見ずに記憶だけでどこまでいけるのか試してみてもいい。多分、失敗するが、失敗した先に発見があるかもしれないという期待は、むしろ君を積極的に迷わせるだろう。
またストーリーに関係があってもなくても、発見したものにつけてしばしばトランシーバーをつけて窓口の先の女性と雑談できるイベントが用意されている。この雑談の内容は大抵くだらない。これで何を思い出すかと言えば、MGS1~3のやりこみ要素としての、くだらない無線だ。他愛ないおしゃべりは素晴らしい。
この会話は基本的にラジオを通してリアルタイムで行われるが、相手の答えに対して返信が自動的に現れるのではなく、まずラジオをつけてそれに反応するか、しないかを選択できる。つまり、そこで応答しないこともできるし、その場合にも「応答しなかった」ことへの反応がある(「応えるのがそんなに難しかった?」とか「答えたくないならいいけど」とか)。
返信のタイミングにtabキーを押せば、更に最高3つの選択肢の中から応えることになる。この選択中にも時間制限は進んでいて、反応しなければ時間経過の非回答として会話が進行する。こんな具合に、トランシーバーの会話にしては非常にインタラクティブな会話なのだ。
大抵の会話はそれほど重要ではないので適当に答えるといいが、時にトランシーバーの女性の繊細な気持ちに応えるような状況で、毎度三つの選択肢から時間制限ありでベストのものを答えようとしたり、あるいは何かウィットの効いたことを応えたいと思った場合は、確かにネイティヴ以外にはしんどい部分だし、もちろんネイティブにも悩ましいものだろう。(かく言う僕もネイティブじゃないので、気を抜くと重要な英語の指示が左から右に出ていくが、最低限の指示は確認できるようになっているし、そもそもそれほど複雑な指示はありえない。)
ところでこれが逆だったら、つまり毎回リアルな会話の選択肢に、何分でもかけて最良の選択を選べるような状況だったらどうだろうか?それは会話自体の魅力を、与えられた会話の選択肢に自分の気持ちを近づけて成功させようという気持ちを削いでしまうし、相手と同じ時間と状況を共有してる気分にはなれないかもしれない。つまり、時間内に答えなければならない、という状況は、時として、何時間でもかけて答えられるよりは緊迫感が維持され、ゲーム体験が刺激的になる可能性がある。
ゲームにおいて、確かにその空間自体の質が、ゲーム体験を決定するほどに重要な要素になり得る。本作の彩色が強くてテクスチャーもゴテゴテした感じは懐かしい感じを覚えさせて好印象だ。だがそれだけで終わりのはずがない。多くの人は、よく出来た箱庭を与えられれば、気分が最高になり、ゲームレビューに★5つを付けるほど感受性は開かれていないのだ。加えてそういうゲームは思索を必要とせず、割りと簡単に作れて、もっと最悪なことにB級ゲームとして市場に溢れかえっている。
そこで、なにができるのか、何をすべきなのか、あるいはまた何ができなくて、何をするために時間をかけるべきかを用意することこそ、むしろ当面ゲームがより追求すべき問題じゃないか?この点で、ゲーマーは決して生のままの自由(レッセフェール)を望まないのは確かだ。時にこのゲームのように、地図とコンパス、そしてラジオの向こうの女性の指示を頼りに、森の中を頭を使って彷徨いたい、迷いたいと考えているはず(だがこれは矛盾した願いなので彼らの頭にはそうそう浮かばないだろう。)
読書欲が戻った話
大学の授業が全部終了して、それでもまぁ先のことを考えると一息もつけずに居たりした。これで一応自由の身ということらしいが、サルトル的な意味で全く開放感はなかった。刑務所の中で今日は一日自由人のフリをしろと言われたような心地だった。んで大学期間中の習慣を引きずって、今日も午前から夜まではうじうじしながら「純粋理性批判」の上巻の端を読んでたけど、夜八時になってもまだ外に出てないし、作りおきのカレーを一日以上食い続けると流石に体調に影響を与えるんじゃないかと危ぶんだので、外出した。
それにしても学術書はべらぼうに高い。でもまぁ再び先のことを考えると(考えても結局)勉強するしかねぇなぁ〜と、「純粋理性批判」の下巻3600円(でも上巻と合わせても5600円だから、そうはいっても努めて良心的だ)を紀伊國屋書店の三階でいかにも自分の知的スノッブに恥じいって見えるよう沈鬱な顔で裏返してレジに出して会計し(だが店員は特に興味なさそうだった)、その後地下に降りて、あの例の妙に気ぜわしいパスタ屋で店員の眼を盗んでジュノベーゼに粉チーズを並並とかけて、真っ白になったそれをかき混ぜて見えなくした奴を薄っすいオレンジジュースで流し込み、それで腹がくちくなったらビックロで買いもしない電化製品を冷やかして、最後に3丁目辺りのブックオフに行っていつものように「孤高の人」十四巻で文太郎がK2東壁の最後の500mを登るか生きて帰るために登らないかで精神が分離する辺りを読んで、この作者やっぱすげぇとなった後に、不意にあっ本読みてぇ俺と思った。
そこから、自分でびっくりするぐらい自然なモーションで、ラノベコーナーに回って名前だけは聞いてた奴を一冊手に取り、大丈夫そうなのを少し確認してはすっと抱え、ついでに文芸コーナーでも単行本をさっと選び、それから4コマ漫画で買いたかった奴をぱっと見つけて、レジに向かい、会計を済ましていた。すっ…さっ…ぱっ…で店を出てきた折には妙に晴れ晴れとしていて、なるほど読書欲ってこういう感じだったよなぁと懐の感触を確かめていた。
誤解されるかもしれなかったが、本はまぁ恒常的に読む性質だとと思う。ただここ最近は、面倒な本ばかりぶつかって能動的に読む必要のために結構苦労していた気がする。そもそも積読を作り始めたのも大学に入ってからだった。そこからは買った重い本をさばくのに精一杯だったのか、それを読み進めては買い足して、また読んでを繰り返していたので、小説に関しては二年ぐらい、ラノベは丸々六年ぐらい受動的な読書欲が凍結していたと思う。今本棚を検分しても小説はそれなりにあるがラノベがほとんどない。(「人類は衰退しました」ぐらいしかない。)いくつか買ったまま中途で放置した小説もある。買ったら読みたくなるかもと思って、結局手をつけなかった奴もある。とにかく、一日中本を読んでた日もあったが、本に熱を上げた記憶がしばらくなかった。
全体的に大学に入ってから、切迫した読書ではない娯楽系を意図的に避けていたというか、どうも変なリミッターをかけて、自分の読書欲をコントロールしようとしてたらしい。もともと大学に来るまでは小説しか読んでなかったから、大学に入って教養書研究書の類いを読み始めると、逆に前者を避けようとしてたのかもしれない。そこでどうして不意にそれが戻ってきたのかと考えると、やっぱ一応大学が終わって、掛けがねが外れたようだ。それにしてもつまらんことをしていたと思う。別にどんな本でも本には違いないし、娯楽に高尚も低俗もないし楽しくて気が紛れるものは、概ね良いものじゃないか、と今は思うんだが、読書欲が自分からは出ないときは結構穏やかじゃなかった気もするので、まぁ人生しゃーなし、ということだろうか。
オチが面倒なので今から昭和エッセイ風の風刺に落としこむが、翻って読書欲というものは滋養と同じで、頭にいいモンばかりを詰め込もうとしても頓珍漢なことになるが、それをエラい学者がやれ教養だ、嗜みだ、早く俺の本を買えと急かしたり、知ったかぶりを吹かす輩がやい俺はこんなに読んでいるんだぞ、と現れたりするもんだから始末が悪く、悪食と腹下しが横行する。変な風潮が現れて界隈が暗くなる。本は読みたいときにだけ読めばいいし、読んだ数で特に何か箔がついたりするわけがない。だから某の蔵書が何冊だった、本読みの鑑だぁなんて脂下がる奴は早く回線切って首吊って氏ね。以上でーす。