2016年声優の演技ベストアクト選 

ウ ン チ ー コ ン グ っ て し っ て る ?

 

僕は知りません。

 

今年も佳境なのでそろそろ色々総括しなきゃいけないし、今日はとりあえず今年良かった声優の演技を貼っていきます。

軽く声優を論じるときの大枠の観点について話します。

 

コンスタントに良い演技する声優というのは実はいません。大体人気声優というのはアニメ出まくってるんで、演技なんか一から作る人はそういないんですよ(悠木碧みたいな怪物もいるが)。だからかなりレディートゥーメイドな型でガンガン推してくるタイプの声優が逆説的に人気声優化するパティーンが多いんですが、これはキャラと合ってたり合わなかったりというのがブレが大きいです。これ声質に依る所も大きいんですが例えば能登麻美子はあの声質上おっとりしたキャラなら「能登麻美子」として発揮できますがそれは「能登麻美子」的なるものの延長としてキャラが布石されてしまうので演技としては評価し難い部分が出てきてしまう。

 

そうなると声優の演技が見たい場合の理想は一回しか出演してないのにすごいキャラにあった演技をする新人ですが、これは逆にキャラクターのイメージからその声優を引き剥がす必要が出てきてしまうし、あとひとつかふたつ別の役を見てみたいもんですよね。こういう人気声優ってわけじゃないけど、いい演技するのになァ〜みたいな人は推し甲斐があります。その後の演技の伸びしろに期待できるし。逆に他の演技はつまらないのにこの演技だけ面白いということもあるけど。

 

上手いな〜と思うタイミングというのは色々あると思うんですが、基本はシャウトと泣きの演技に寄りがちですね。そこでわかりやすくキャラに感情がノッてるかが出て来るし。でも細かい抑揚とか緩急の出た小さな場面であっ上手いわこいつとなることもあります。(この例でいうと『ユーフォ』の黒沢ともよは別格でしたね。)どこで気づいたかはまぁ感性に依るわ。好みから言うと「やさぐれ」とか「たくらんでる顔」の演技とかは一般的なアニメキャラビルドから出しにくいんで、見どころですね。

 

あとアニメの方向性として声優の演技がブーストできる作品かどうかも割りと問題です。これはアニメ(音響監督)が典型的なキャラ像を各キャラに与えるかどうかで趨勢が決まる気がします。個人的に選んだ作品も岩浪美和のがバリ多い印象。

 

あと当然の指摘として「声優を意識させるような演技は好悪どちらでも本質的なものでない」というのは在り得る気がします。キッズアニメなんかはキャラとの一体感が凄いし、スパン長いんで短期的には演技のハイライトも無いから声優を意識することはあんまりないですしね。でもそうだとしても声優を面白がれる機会があるなら得じゃんね。

 

そういうわけでキャラレベルで何人かいい演技してた人を紹介します。

 

雨宮天(「この素晴らしき世界に祝福を」!のアクア)

雨宮天って自分の可愛さを分かってるから(要参照)かなりキャラ崩壊気味の馬鹿キャラやったほうがブンブン振り回せる印象ありますよね。例えば「モン娘」のラミアとか。そんでこれはお馬鹿でドジだけど割りと悪知恵も利くというキャラ。これは雨宮天がこのために作ったというよりは、もともと持ってた演技の作り方にうまく乗った感じか。ところで#雨宮天に騙されるなってハッシュタグには笑った。

f:id:modernlove:20161211060456j:plain

 

 

大空直美(「装神少女まとい」の草薙ゆま)

いやぁ、この声でこのキャラは反則かよと思った。新井里美文脈に「ちょっとだみ声入ったロリはババァかわいい」という黄金率がありますけど、ちょっとファニーなだみ声で、元気なキャラに無類のアホの子っぽさを加味してました。脚本上の感情の起伏に寄せたありがちな演技はちょっと拙いけど、悪巧みしてる時とかの細かい演技が気持ちいいです。まぁ俺がこの手のキャラ好きなだけか。ハマりすぎてこの人次あるの?と心配になるタイプですが。(「ガルパン」の由香里さん的なハマり方)

f:id:modernlove:20161211060509j:plain

 

M・A・O(「宇宙パトロールルル子」のルル子)

この人、大体巧すぎですよね。初見が「がっこうぐらし!」だったのでなるほど声質的にはお姉さん枠かぁ〜と思ってたらどんどんキャラ観更新してきて、今は「フリップフラッパーズ」でもガンガン回してますが、抑揚が独特で何演じても憑依しながら自分のフィールドに惹きつけられる、万能型のキャラ志向というか。このキャラは独白が多く、自己消沈的でナイーブなのに自分の状態に対してシニカルという微妙な年頃の女の子を上手く演じてきました。ハイライトは二話の後半。M・A・Oって名前、最初みたときには源氏名だと思うよね?(実際に俳優業の源氏名だと知ったら納得したけど)つかMAKOどこ行った?

 

f:id:modernlove:20161211060518j:plain

 

小野友樹(「ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない」の東方仗助

小野大輔空条承太郎も板につくまでにだいぶ時間かかった気がしますが、この人一話から全開に空条仗助そのものでビックリしました。イメージから全然外れてないし、キャラの特徴であるヤンキーというより任侠映画風の節回し、「見得」を抑えてる、多分すごい準備したんじゃないかな。小野大輔の承太郎は普段の演技がテンション合せづらそうで生硬いんですが、こっちはおバカ回でもかなり柔軟でした。あと億泰はもう完全に放送前から高木枠よ。お前は絶対何の準備もしてないのに合い過ぎかよ、あれか、いきなりガンダムX操縦できたガロードみたいな感じなのか。

f:id:modernlove:20161211060729j:plain

 

 小林裕介「Re,ゼロから始める異世界生活」のナツキスバル)

小林裕介、これ以前にも演技してたし何本か見てるんですけど全然意識してませんでしたが、こんだけアクの強いキャラを完全に最後は自分のものとして消化してましたね。批評っぽいことを言うとまさにナツキスバルが詰め込みすぎの「演じ過ぎ」なキャラクター性から無力感を経由して個性を残していくというビルドゥングスロマンキャラなので、それを追う声優の演技のダイナミズムとしても申し分なく面白くなるはずなんですよ。でもこの場合、一番美味しかったのはやっぱり中盤のかなりイカれてる時のイカれ演技でした。松岡くんのベテルギウスロマネコンティとのキチガイ合戦よ。つかベテルギウスは分身可能設定なのに、怪演すぎて誰もついてこれないし他の声優が演じたベテルギウスが松岡くんの劣化コピーになってしまったという。すげぇ

f:id:modernlove:20161211060618j:plain

 

岩永洋昭(「ベルセルク」のガッツ)

これ、「岩永洋昭」役のベルセルクのガッツって書いてもいいんじゃねぇのかってレベルだった。映画版からの続投だからこれも今年じゃないんですが、とにかくかすれて厭世気味の低い声が一般的なアニメの男性声と発声が違うし、ガッツという男の異質さにハマりすぎ(まぁ本業俳優だからな)。うわ〜この演技難しそうみたいな所も問題なくアニメっぽくやれるのに何度かびっくりした。今や在りがちな人気男性声優が演じてたらと思うとゾッとするぐらい。一回鬼武者で声あてた金城武は「某演技」呼ばわりされたけど、こっちはエッジがバリ立ちだからめっちゃアニメっぽい。というか任侠映画的な見得ってやっぱりアニメっぽいんだよな。

f:id:modernlove:20161211060753j:plain

 

 

黒沢ともよ(「響け!ユーフォニアム」の黄前久美子)

まぁ諸所で話題になってるけど、今年のベストアクトの一つですよね(実際は今年じゃないけど)。なんというか、黄前久美子には実はもっと在りがちな声優がついても機能するだろうけど、これにつけた黒沢ともよの演技が今まで聞いたことない感じなんですよ。黄前久美子はすごくシニカルな人柄なんだけど、そのシニカルさがだら〜んとした緩みみたいな感じで表出する(例えば第一話前半で見せたいくつかの気の抜けた場面)ときのほうが黄前久美子(黒沢ともよ)が気を張っているときの「イカニモ演技」より生っぽい感情の起伏が出てきてリアルな感情の稜線を感じます。こんなすごい演技するのに黒沢ともよはこれ以外の役は典型的なアニメ声のキャラで割りとつまらないのがますます面白いが。

f:id:modernlove:20161211060827j:plain

 

悠木碧(「僕だけがいない街」の雛月加代、及び「ステラのまほう」の藤川歌夜)

この人は前に「禁呪詠唱」の役がすごくて記事書いたことあるんですが、ブレイクがかなり前なだけにイメージはもう定着したと思ったらそれをぶっ壊更新していくプログレッシブな人です。さっき「声優を意識させる演技は〜」みたいなこと書きましたが、上の二つの役、あんまり上手いんでクレジットで名前を見たらそこで悠木碧だとわかってびっくらこいたんですよ。なんでって、こんなに有名な声優が何度も驚かれるなんてかなり異常なことです。何クールも跨いで同じ人の声聞いてりゃ他の作品に出ても一話で嫌でもダメ絶対音感が作動してくるもんなのに、それをかいくぐって、初めて聞いたように見せかけてくるんですから。

f:id:modernlove:20161211060843j:plain

 

 正直に言って声質自体は狭くて弱い。張るとかなりダミるので、シンフォギアのビッキーとかちょっと苦しそうなぐらいだし。昔演じたGOSICKヴィクトリカも原作じゃ「老婆のような」声って形容ですから、むしろ悠木碧「っぽい」キャラが特別魅力がないと思う。ところが本人もそれを了承してるのか、強いて戻ってくる場所がないので、キャラ志向で演技を作ってくる技量が他より高い。本人も頭いいんだろうなぁという演技の作り方だし、wikiの一覧みてるだけでいい演技ばっかだなぁ〜とニヨニヨしてくる。今後も期待できる人ですね。

f:id:modernlove:20161211060900j:plain

 

 

因みに今年も僕が苦手とする声優は柿原徹也浪川大輔川澄綾子辺りです。 理由は名前聞いてわかった人以外はまぁ気にすんな。

 

(DimensionWのミラちゃんの上田麗奈も入れるか迷ったけど、あの子ばくおん!見たら不安になってきた。大丈夫なのか>)

 

おわり。

あ、あと作品単位も。

 

オカルティック・ナイン

全員脚本上の要請でクソ早口で設定や考察を挟むから内容の密度もさることながら、それぞれの役の演技が出て来る。短い時間に感情の起伏とか抑揚が挟まられると、主要キャラのメンツは特にキャラを読み込んでるのが伝わってくる。

 

「亞人」

宮野真守は単体で上げてもいいかなぁと思ったけど、この作品は全員スペックが高くてよく選ばれているというか演技指導が相当入ったんだろうなという印象がある。予想だけど3Dアニメは音入れの段階でもかなりまとまった情報が手に入るからキャラを想像しやすい?大塚芳忠演じる「佐藤」も実は政治犯ではなくトリガーハッピーサイコパスだったというキャラクターの性質を最初の演技から明示せず、ゆっくり明らかにしていくし流石。あと細谷くんもいい演技してたけど、今年はこの一本に欠けた印象。

 

おそ松さん

これはキャラと設定上、完全に声優劇化してた…割りには全員切れ味のいい演技で有名声優の演技の博覧として面白かったんですよね。一つには全員固定の演技を持ってたから、それらの演技が均質な絵面のキャラにカラーパレット的にぱきっと分かれた性格の差異を与えてたからかな。特に誰がというわけではないが、櫻井孝宏が出ずっぱりの割りに暴れまくってた。つか櫻井孝宏はなんというか石田彰みたいな枠に移行しつつあるな。

昭和元禄落語心中

これも同上の理由で完全に声優の独壇場。そりゃ噺家やらせても声優業だからうまいわな。そりゃキャラもすげぇよな〜。

 

 

おわり

 

そのうち、今年のアニメ十話も選びます。

「人喰いの大鷲トリコ」と「watch_dogs2」の視点批評

あくまで簡潔に「人喰いの大鷲トリコ」と「watch_dogs2」の視野についての批評を。

 

 


PS4ゲーム「人喰いの大鷲トリコ」のカメラの悪いところは大きく上げて3つ。
・マチが大きすぎてすぐ反応しない。←これはすぐ改良されていい気がする。
・L1でトリコを見上げようとするとトリコしか見えなくなる。
・FOVが狭すぎて遠景がほとんど見えない。
・酔う ↑上記の原因により


しかしゲーム性を考えるとこれが一概には悪点とはいえないし、きちんと説明するべき良点でもあるからすこしだけ記す。

 

 


いわゆるFOV(field of view=視野角)の広さというのは「プレイしやすさ」という点で明らかに「大きければ大きいほどいい」という理論になりやすい。特に対人FPSだと死角の狭さが命取りになりかねないので、全員限界まで上げていくスタイルになるだろう。例えば今プレイしているPCの「watch_dogs2」は短い時間で多くの情報を収集する必要があるため、かなり開けたFOVになるし、特にオンラインのハッキング戦だとまず敵をみつけないといけんからカメラも感度最大で限界までぐんるぐる回しまくる。かなりプレイヤーよりのカメラ使いなわけだ。

f:id:modernlove:20161208154211j:plain

 

 

 極めつけは運転時で、このときは言うまでもなく多くの情報を収集しなくちゃいかんという関係上、視点が明らかに運転手の視点から乖離してプレイヤー側の都合のものになっている。トリコとwatch_dogs2のFOVが好対照をなすのは、ゲームの方向性としてwatch_dogs2が「超身体的」でメタキャラクター的な視座に立っているからだ。
 watch_dogs2は電子機器にハッキングをすることでプレイヤーから視点だけ乖離し、監視カメラやドローンを媒介して複数の場所を見ることが出来る。この時アバターはカメラを操作している関係にあるが彼等にとってそれが二次情報であり、同じくプレイヤーにとっての二次情報(間接的に見ている)と同格になるため、ここではプレイヤーは擬似的に「直接見ている」と誤認しなんか自分でみてるような迫真感=リアリティを感じたりする。

 Media preview

これが例えば3DCGアニメ「亞人」でも多用される表現でもあるがアニメというメディアの中でyoutube風の動画のフルスクリーンを見る時それがアニメ内の表現である前に擬似的に視聴者はその動画を直接見ているように錯覚するわけだが、ガワが3Dならではの表現手法だと思う。

 

f:id:modernlove:20161208154315j:plain

 拡張する視座あるいは超アバター的なワイアード空間とシームレスに意識が連続する主人公の意識に接続する我々はあるいはサイバーパンク的な超肉体的存在へとシフトしていると考えることもできるかもしれない(とかなんとか)

 


んでこの例と完全に対称性をなすのが人喰いの大鷲トリコの少年。


このゲームのカメラのFOVが極端に狭くて全体を視野に入れづらいのはゲーム性として用意された経験で、主人公の少年であり小さな視野しかもたないという性質を極端に反映して、そこにプレイヤーの経験幅も寄せている。要するに「子供の視点で見る」ゲーム。少年の視野角では全体を俯瞰することはできないので物を見つけたり出口を探したりするのも苦労する。そこで、例えばトリコの背中に乗って高い視点を得ることで初めて「俯瞰」できるというようなゲーム経験も用意できる。

 

あとL1を押すとトリコを収めるような画面に成ると多くの場合必然的に少年がフレームアウトするが、これは多分トリコを見つめるという運動がwatch_dogs2のカメラを通したイリュージョンのようにプレイヤーにとって直接的な経験になるような仕組みを意図しているんだと思う。要するにトリコを見る時にはプレイヤーにとってトリコを直接見るような状態にしたかったんだよ(※多分)。

 

<同日午後6時追記>

トリコの背中やしっぽを掴んだまま飛ぶとクソ狭いFOVのカメラが無茶苦茶に振り回されて時々何が起こってるのかわからんことになる。ただこれは大振りな動きを想定していないアバターの少年の視線が文字通りトリコのスケールの違う動きに「振り回されている」状態を表現していて、慣れるとトリコの動きの大きさや本当に自分が巨大な獣の背中に乗っている感が出て気持ちがいい。先述の車という「乗り物」の経験と異質なのは、車を乗る=支配しているのではなく、獣に乗り付けている=支配されている状態にあるので、ここでカメラがぶん回されるのは完全に正しい。エピックな経験だ。

 


 あとこの経験はそのままトリコとのコミュニケーションの困難さに置いて顕在化する。トリコはまぁ結構言うこときいてくれなかったり思った通り動いてくれんかったりするが、これはトリコのAIが無能だからコミュニケーションが取れないんじゃなくて、トリコとのコミュニケーションの中の一定の不可能性がAIに仮託されてランダマイズされているだけで、動物とは言語でコミュニケーションするわけじゃないから全てを汲んでくれるわけがない。動物とのコミュニケーションは多分、伝わらないけど「多分伝わったやろ」感とかが重要なわけで「わかりあえた」「伝わった」という喜びが伴うにはそれが常に「分かり合えないかもしれない」という崩壊の可能性のもとで機能している必要がある。相手とは本質的に分かり合えないかもしれないという緊張感がゲームには必要なんスよという話。 

f:id:modernlove:20161208154337j:plain

f:id:modernlove:20161208154351j:plain


(クッソかわいい大鷲君)


このための結局はトレードオフとしての極端なプレイ経験の困難さと不自由さであって、これがないとゲームとしてはエッジが立たない(例えば他にはフロムのソウルシリーズにおける少ないリソースにおける鬼難易度とフレーバーテキストとか)であり、この辺を絶対に誤解してでかくて広くて不自由ないゲーム最高〜みたいな馬鹿なアメ公は低評価をつけるに決まってるので誰か擁護しとかなきゃよ。


つかトリコ(のAI)は「ピカチュウげんきでちゅう」のピカチュウよりは遥かに有能だよ。つかあのゲーム音声操作オンリーとかちょっと未来に生き過ぎかよ。

 

 


終わり。(一時間で書いたクッソ雑な記事)


(そういえばこれの基底概念の「不可能性の経験」について俺はエクリヲ五号で書きました。買え)

ecrito.fever.jp

メイヤスー4章 resume

カンタン(簡単)・メイヤスー「有限性の限界」
横山 祐
「第四章 ヒュームの問題」
………

第四章の解説

 

 


この章のキーワード
・ヒュームの問題
安定性/絶対性
・頻度の帰結

 

 

 「私達は眼差しを非理由に転じねばならない。非理由をこの世界自体の真なる内容にしなければならない。」世界から絶対的なもの(意味の意味、全くの他者、存在論的命題等)を抜き取り、全てを偶然性に委ねる。=全ての確実性を疑うこと。安定性は必然ではない
 しかしそれはパラノイアになる(p161)ということではなく…
「事物は実際にいかなる理由もなしに、最も気まぐれな動きをとりうるが、しかし私達が事物と結んでいる通常の日常的な関係を全く変えずにそうできるのだ、と真剣に認めることができる(P141」という主張に依拠しなければならない。。
 なぜなら


 ヒュームの問題とは…
 外部的な存在者によって説明される可能性を捨て切らないところに恒常的な哲学の問題系があり、解かれることのない永遠のエニグマというソースが存在している。結論は原因に帰納できない、という真理への懐疑論である。(因果的必然性)
科学/哲学においては、「同じ最初の条件からは、同じ結果がつねに起こるだろう」という前提が担保されている。メイヤスーが新たにこに切り込むのは「発見された法則の永続性」である。理性に従えば、100の結果を引き起こす原因はそこから結果を生じさせる。しかし、100回の結論から原理を生成しても、それを101回目が崩す可能性は残り続ける。
ビリヤードを100回突いたら100回同じ結果が出る、と考えるのは安定した理性の世界では当然だ。だがもっと大きな公準に立つなら、それらはまちがった帰結のはずだ。


頻度の帰結とは
  もし法則が頻繁に変わるなら変わってるはずだ。でもそうはなってない。法則は基本的に変わらない。これは「安定性」に関する帰結で、「絶対性」に関する帰結ではない。「変化する」とは「頻繁に変わる」という意味で、万に一つなら変わることがある、という意味ではない。(155~158)
 
頻度の帰結に従い、「安定性」が「必然性」へと上昇してしまう(p159)が、これはヴェルヌによれば「思考可能/経験可能」の違いのためである。「アプリオリなものが私達を偶然性に直面させるのであり、逆に、経験がそれに対して必然性を対置するのである」

ひとしく思考可能なものは等しく起こり得る(ヒューム)(160p)という定理はまた、思考可能/経験可能の量的ひとしさのために帰結される。だが、偶然が思考可能だが経験(不)可能(非常に稀な事態)に遭遇した時、「世界が全くの(toute)偶然で別様に変化」しても、我我は「何か仕掛けがあるんだろ?」と前者の定理を適用し、隠された定理のためのカテゴリーへの思考に向う(p161~2)


 だが我々はしばしば内的な経験を宇宙の法則にまで昇華する。我々は理性の及ぶ範囲の世界観でのみ適用できる、偏(≠遍)在的で「外宇宙、及び外数学の世界」(カオス)ではおそらく可塑的な法則を用意する。それは理性の(おそらく統合失調的、陰謀的にならないための)安全弁だが、第二の穴(カオス)に放り込むべき「真なる例外」的状況(本質的には全て「真なる例外」的で在りうるのだが)が、第一の穴「すごい偶然」にすべて飲み込まれてしまう。(161~163)
 
 宇宙サイコロとは…(これいる?)
 思考可能な面しかない(我々の)宇宙法則についての超デカイサイコロ。ごきげんようサイコロ(何が出るかな♪何が出るかな♪)に「突然、死ぬ」とか書いてないでしょ。多分そんな感じ。


想定できる反論への論駁(要旨補強なので時間がなければ読み飛ばして可)
 Qエピクロス派’(生命の合目的性を尊重する人々)
 世界は無数のカオスが何度も失敗したあとにようやく生成した合目的なものだから、安全な結果以外起こりようがない。(p164)
 
A自然法則の必然性を想定している。「自然法則の偶然性は、偶然についての議論では到達できない」(166)自然法則の偶然性は偶然のめぐり合わせと混同されてはならない(第一の穴と第二の穴)(p166)


 とはいえ、この偶然性を単に全くのカオスとしてジャンクヤードに投げ込んでは今までと同じなので、この概念に向けた「カオスに関するなんでもいいのではない条件の探求」を豊かにしなければならない。それは「数学」=超限数によって果たされるだろう。(168)


数学的思考においては「頻度の帰結が機能するためには、矛盾なく思考できる可能的なものの全体が存在していることを想定して、次のこの全体が、その濃度がいかなるものであれ、物理的に可能な出来事の総体より甚だしく大きいと措定することだけが必要」だ。(今までの確認)(170)


しかし、カントール集合論者)によって「数の非全体化」つまり「超限数」が発見されたことをアラン・バディウが「存在としての存在」の思考の手段として重要視したように、改めて数学と哲学を取り持つことで発展すべきだ。


超限数とは(この場に数学の識者がいたらもっと詳細に解説していただきたいが)
 特定の作業を加えればかならずAよりBのほうが大きいという数式を取れるとある計算を用いると、無限に対して(より多く)になれる方式が存在する(∞+n)これは無限という(X)的概念の深層を破壊する。


カントールの超限数を通して、「思考可能なもの」はその全体が実は「思考不可能な」ものであることを証明できる。そしてこのように我々は外部に対して無知だということは、我々が経験の外部にあるカオスに対してその経験から帰納的に演繹された概念を適用するのは誤りだと言うことが出来る。「私達が所有する、そうした確率論的推論を正当化する諸所の全体性は、《私達の宇宙》のまさしくただなかで、ーーつまり経験という道を通じて与えられねばならない。(176o
 これについてカントが超因果的な偶然で獲得できる認識など存在しないと考えたが、そのような超因果的な偶然が起こり得ないと知ることはアプリオリな必然ではない。(178


 可能的な世界が《全体》をなさないという思考をすすめることで、表象の偶然的な無秩序のほうこそをむしろ起源的な状態として捉え、またカント的な超越論的作業を詭弁として取り下げることができる。(178~180) 
 
偶然(hasard)と偶然的(aliéatoire)はどちらも可能的世界の中の賭けを母体にした、賭け及び確率論的世界の言葉だが、偶然性(contingence)はラテン語のcontinfere(到来する)を持ち、偶然というのが最後は「到来し」収束し結果することを意味する。だが偶然の思考の外に一筆を画定し思考する方法は、あくまで数学である(181~2)(とメイヤスーは考えている)


 今までの哲学は外部に関する思考に嘆息するだけだった(特にウィトゲンシュタインハイデガー)。だが今や形而上学の試みとして、超限数を数学的なひとつの例外としてではなく、無限における一つの判例として思考する必要がある。「カオスの潜在性の超ー莫大性が、目に見える世界の完璧な安定性を可能にしている」つまり、カオスが観測可能であるからこそ、カオスが有限の反対として思考可能性をもたらしている。基本的に我々は安全性を手放す必要はない。だが「祖先以前性の問題」を思考するためには、今持って数学的言説の絶対性を取り返す必要がある。
 


 感想
 ・メイヤスーは手法的にはオーソドックスな弁証法を多様する。「Aは◯◯と言っている」「しかしAには◯◯という誤謬がある」「Aは間違いである」を繰り返す。そのため論を補強する過程が長いが、結論は比較的に簡単に抽出できる。
 世界の「判例的な」変化(自然法則やビリヤード)を思考することで数々の自然科学的発展を遂げてきた近代からすれば、今「ありがちな変化のその先を疑え」となるのは当然の帰結だろうか。
 ・文体のレベルでいえば英語で同時発刊できるくらいにはすっきりしていて論旨にもエニグマがない(魅力がないと言ってもいいが)。とはいえ現代哲学の直系を匂わせる
 ・かつてアラン・ソーカルは哲学内のレトリックでもって現代哲学が数学を「滅茶苦茶に」解釈していると批判し、世界で取り沙汰されたが特に日本ならニューアカ世代がやたら打撃を受けていた。おそらく数学と哲学を利用するアラン・バディウの影響下にあるメイヤスーはこの間を取り持ち、再び科学的言説と哲学を合流させることを目的としている。(デカルトが「数学は世界を解き明かす最高の定理」としていただけに、新なる反デカルト主義とでも言うべきか?)一方でメイヤスーはマラルメ論もかいていて、文学嫌いというわけでもない。バランス感覚に長けてはいる。
 ・超因果的な経験が起こり得ないと我々が知ることはできないと指摘するのは、カントを批判しながらもカントの「純粋理性批判」の論旨にそっくりだ。先祖帰りというか哲学の本堂帰還を狙っているのだろうが、あくまで「科学」との共闘を狙う以上、文体や論旨に飛躍がないか注意深すぎる気がする。
 ・全体的に手堅く反復も多いために「まぁそうだよね〜」という印象で全員が納得するのではないだろうか。しかしだからこそ、我々には改めて「何言ってんのかわからんけど、なんか凄いこといってるぞこいつ」というドライブ感がの方が必要だ(と俺は思う)
この章の結論
我々はいちいち取捨しているIF(もしも今北朝鮮からミサイルが…)のようなストーリーを可能性としては取り合わないが、それらは経験から来る演繹からナンセンス(なぜなら理性はそのような物語を拒否する)なのであり、三章で確認したとおり現実の世界そのものの非理由的な容体だとは帰結できない(107p)
 しかしカオスはそれ自体が豊かにならなければ意味がなく、思考可能なものの境域を拡大しなければならない。そこで、例えば超限数を用いて、今までカオスの代名詞だとされてきた相関主義的な(X)(任意の外部概念)のダンスステップの信頼や神秘性を打ち崩すことが必要になる。

 


この章で批評的に使える部分
・概念の観察と指摘
・数学的概念の応用(今後重要になるのでは)

 

 

巻き込み型アニメを問う 新海誠の背景の仕組み

さて、先日高畑勲に関してこういう(http://d.hatena.ne.jp/kingfish/20140505)記事が新海誠批判の基点として掘り出されて、「巻き込み型アニメ」としての新海誠を問うような論調を先程見かけた。それに関して、少し思い出したことがあったので随筆する。

 

先にいっておくが、これはほとんど「君の名は。」があんだけ売れてしまい、しかも新海誠から童貞臭さが抜けてしまったので、その腹いせに文字通り朝飯前の時間にシコシコやっているだけで、「秒速5センチメートル」という作品に費やされるべき紙幅を折りたたんで展開される、愛ある嫉妬の文章だと受け取って欲しい。そもそもただ売れているだけの作品にミソつけるのはクソ野郎だし、最後に山崎まさよしを流さなかったことを恨んでるわけじゃないんですよ、本当に。

 

 

さて、このインタビューの指摘の中で、高畑勲が提起する「巻き込み型」という言葉に正しい注釈がされていなかったように思われるが、要するにそれは、「作品中の運動が、そのまま聴衆の評価を翻弄するような形で密かに織り込んでいく」運動だ。高畑勲が触れた新海誠の「青年だまし」というのは、こう表現される。

 

 

要するに、作者はみずから作り手になることによって見事に「そういう世界から卒業・脱出しないまま、それでも現実を生きる」ことに成功した一人であり、「卒業」や「自分の非成長の確認」をしたくない若者に支持され、その現象全体を情報メディア産業(とは何のことか分からないが)推進派の脳天気なおじさんたちが追認したのだと思われる。

 

 

つまり、ここでは作り手の情報が聴衆の評価を一気に織り込んでいく巻き込み、として機能する。パラリンピックみたいなものだ。ある種の人たちにとって、見る前から評価が決まっている。すごい、一人で「こんなにできるなんて」。五分もあればあとは最後に立ち上がって拍手するまで尻が収まらなくなる。そしてそれは客観的な作品の評価を不可能にする、というわけだ。なぜなら

 

こういう映像を見ていくら「勇気をもらっ」たつもりになっても、現実を生きていくためのイメージトレーニングにはならないことは当然である。それどころか、[成功している素晴らしい自分という]きわめて有害なイメージを身につける危険性がある。

 

まぁ補足しておくと、とある時代の人にとって、一つの作品とそれが放り込まれる社会は常にミッシングリンクを保っていて、劇場やビデオデッキの中で完全に閉じられた余興としての映像が蔓延することに常にある種の懸念を表明する必要がある、というわけだ。

 

 

しかし「巻き込み型」自体の運動に関して僕が言いたいことはすこし違う。新海誠作品における「背景」についてだ。これはバックグラウンドという意味ではなく、文字通り美術としての「背景」。新海誠の作品世界を表現する時、しばしば徴用されるが、しかしそれが「美しい」という言葉以外で表現されているのをほとんど見たことがないのが残念でならない。

 

 

彼の背景を僕は「ラッセン型」および「ドムホルンリンクル型」と理解している。この2つの型を参照すると、なんだかわからないがとにかくすごい新海誠世界の背景について少し考察を及ぼすことができるかもしれない。


先に「ラッセン型」。これよ、これこれ。

 

f:id:modernlove:20160924112315p:plain

 

こういうとにかくシャイニーでキッチュでファタズマゴリーな絵を見たこと無い人はそういない気がする。ところでラッセンの絵があれだけ日本で話題になったにも関わらず、実は欧米では誰も知らないという事実をご存知か。(ちなみに実家にも本人がサインを入れた奴が一枚ある。)

 


ラッセンがあれだけ日本で売れた理由は謎に包まれているし批評の介入する余地はあるのだが、ラッセン自体のイリュージョン的な特徴は列挙することができる。
 ①なんか七色の世界がとにかくキッチュ
 ②空の中にイルカが飛んでたりしてどこか非幻想的
 ③特に紫色がやたら強い。必ず入ってる


 さて、①七色の空、これは新海誠がよく虹やレンズフレアを入れることでしばしば達成される。「君の名は。」では彗星だったが。これだけでかなり画面にイリュージョンが発生していることがわかるだろう。虹を見れて「やったぜラッキー」ぐらいの話だが。

 

 ②でも流石に空に非現実的なものを写し込むと世界観が崩れるので、二番はやってない(と思う)。とはいえpixivのデイリーランキングではまぁよく見つかるから時間があったら君も探してみよう(読者参加型企画)
 

 ③そこで、最後の部分に着目しよう。紫色はデジタルの盲目と呼ばれ、虹の最も内側の色であることからも分かるように可視光の中で最も短い(大体380〜430nm)波長の光であり、映像の中では特別に加工しない限りほとんど出てこない。つまり、我々が普段見ているにも関わらず、カメラが取り逃がしやすい色なのだ。だからこそ、インスタグラムの加工アプリで補うだけで、あれだけ幻想的な雰囲気になりみんな夢中になるし、紫の入ったリアルな映像というのは、それだけで迫真のリアリティを獲得してしまうのだ。下の背景の右上の紫を隠してみると、案外イリュージョンが低減されることにお気づきだろうか。

f:id:modernlove:20160924112541p:plain


 新海誠以降、お前目がいかれたんじゃねぇのかってぐらい紫色した背景が、特に低予算アニメでやたら強調され、雰囲気が良くなったという事例もある。甚だしきは「ねらわれた学園」で、目が痛くなるぐらい眩しい紫色を一時間半拝むことができる。(東大卒の中村亮介監督は多分そういう細かい巻き込み効果みたいなのを全部意図してやってるので好きじゃないんだよな)

 

f:id:modernlove:20160924112605p:plain


やりすぎ。

 

次に、「ドムホルンリンクル」型。ドムホルンリンクルのCMをご覧になったことがあるだろうか。

www.youtube.com

www.youtube.com

 

 この映像の中で、ドムホルンリンクルは精密な機械と手作業が交互に重なり合い、いくつもの重要な工程を経て消費者の手に届く、その過程がドラマチックに描写される。ここではその商品を使ってどんな効果が得られるかが重要なのではない。ただ、その商品が手元に届くまでにどれだけ複雑な過程を経てきたかどうか、そしてそれがCMの中で描かれるとき、機械の非常に繊細な動きのクローズアップや、作り手の真剣な眼差し、正確で狂いのない手元などひたすら「細部」が強調される。すると、この映像は密かな等号を用意し始める。この映像の中でこれだけ「細部」が描かれているのだから、細部の凝縮した映像であるこのCMは素晴らしいものだし、翻ってドムホルンリンクルという商品はとにかく質が高いものなのだろう。(なにしろ)これだけ凝った過程を経て我々の手に届くのだから、映像を見るだけで、もうすぐ自分の手に最高の瞬間が届く、その快感に酔ってしまうことだろう。

 

 このように、細部の凝縮にはそれだけで人を酔わせる性質があり、そのようなカットを連続させるだけで、観客の価値判断を「巻き込んで」用意に作品自体の価値を獲得してしまう。言の葉の庭の最初の数分を見てみよう、葉が雫を垂らし、水面に落ちる音、それら縮減された日常の細かい瞬間のクローズアップを繰り返すだけで、人は簡単に酔ってしまう。それらは端的に言えば強烈なドラッグであり、価値判断を抜きにしてひたすら気持ちよくなってしまうし、それのみならず作品が外に開かれなくても、円盤の中に細部が凝縮しているフェティッシュの所有のために、人は容易に諸手を挙げて賞賛し、円盤を買ったり映画館に足を運んでてしまうわけだ。

 

「新海アニメの風景描写は大好き
雨とか池の水の表現だけで満足できるレベル
やってることは平凡な短編青春小説のレベルなのになぜか好きだわ」

(どっかで拾ってきた人の感想)

 

 最新作の「君の名は」においても、細かい手元や異常なほど書き込まれた背景の描写が連続して、見るものを圧倒する。しかし確かにそこには語るべきメッセージはなく、語る内容の語られるべき価値ばかりが、その語り方によって語られる前に無限に増幅していく。しかしそれだけお膳立てされると、語られ方は語る内容に対して無尽蔵に拡大し続けていく。しかし最初の高畑の発言がまえぶれているように、それは「勇気をもらった」「良い映画を見た」気持ちにさせる機械であって、ここの感想を掘り返すと、どうして良い映画だったのかわからない。要するに映画が自らを良い映画だと宣伝し続ける、その一時間半の広告が存在するとき、観衆はそこに感想を挟む余地もなく、ただ圧倒されることしかできない。だから、「巻き込み」型という言葉には、単なるセンチメンタルとは別の形で、現代の多くの映画が持つ細部のフェティッシュの暴走という意味を含んでいる。高畑勲が「ほしのこえ」を見て危惧したのは、むしろこちらなんじゃないでしょうかと提起したいわけだ。

 

ちなみに最後になるけど僕は「秒速5センチメートル」の脚本は素晴らしい循環性を持っていると思うので、さきほどの感想にもいつか異論を挟みたい。

 

 

ニーチェ省察 三

ニーチェ「喜ばしき智恵」(河出文庫 417p)

「博学な書物を前に」

 

「われわれは、書物に囲まれ、書物に尻を叩かれてようやく思考を始めるといった連中とは一線を画す。われわれはいつも、外気の中で思考する。ーー歩いたり、飛び跳ねたり、登ったり、踊ったりしながら、一番好ましいのは、寂寞たる山嶺や海辺で思考すること、道そのものさえ思索に耽る、そんな場所で考えることである。書物や人間や音楽の価値を問うためにまず尋ねるべきは、こういう問いだーー「それは歩くことができるか? それにもまして、踊ることができるか?」……。

 


 われわれは稀にしか書物を読まないが、だからといって読み方が下手になってしまうわけではない。ーーわれわれは、ある者が自分の思考にどのようにたどり着いたかを、なんと迅速に見ぬいてしまうことか。彼は座り込んで、インク壺を前に、腹部を圧迫死、頭を紙面にうずめているのではないか。そんな彼の書物を、われわれはなんと早々と見捨ててしまうことか!そこには締め付けられた臓腑が透けて見えるようだ。同時に、賭けてもいいが、そこには書斎の空気や書斎の天井、書斎の息苦しさも感じ取れてしまう。ーー誠実で博学な書物を閉じる時、私はこのように感じた。謝意を偉大、深く感謝しながらも、肩の荷が降りたような気持ちだった……。

 

学者の書物には、おおむねいつも何かしら圧迫するもの、圧迫されたものがある。「専門家」がどこかで顔を覗かせる。専門家への熱意、生真面目さ、憤懣が、そして彼が座り込んで思考を紡いでいる狭い分野への過大評価が、彼の猫背がーー専門家というのは決まって猫背であるーー姿を表す。学者の書物はいつでも、歪んだ魂を反映している。いかなる専門職も魂を歪めてしまうのだ。青年時代を共に過ごした友人と、彼らがひとかどの学問を修めたあかつきに再会したとしよう。哀しいかな、なんと見違えるような姿になっていることか! いまや彼ら自身がいかに学問の虜となり、学問にとりつかれてしまっていることだろう! 自分の狭い領域にしがみつき、見分けがつかないほど押しつぶされ、ぎこちなく、均衡を失い、やせ細り、一面節くれ立ち、ただ一か所だけが見事に丸みを帯びている。ーーそんな彼らに出会うと、唖然として言葉を失ってしまう。あらゆる専門職は、たとえそれが黄金の鉱床をもっていても、頭上に鉛の蓋が覆いかぶさり、それが魂を嫌というほど圧迫するため、ついに魂は畸形で歪んだ姿と化してしまう。これはどうしようのないことだ。こうした畸形を、何らかの教育手段によって回避しようなどと考えても無駄である。いかなる分野の達人になるにも高くつく。ーーこの世では何事も高くつくものだ。専門家は、自分の専門の犠牲になるといった対価を払って専門家となる。

 


 しかし(一方で)諸君はそれと違ったやり方を望んでいるーー「安上がりに」とりわけもっと手軽にーー。そうではないか?同時代の諸君よ。ならば、それもよかろう!だがそうなると、諸君はただちにまったく別のものを手に入れることになるだろう。専門職の達人や巨匠の代わりに、文筆家を、器用で「多芸多才な」文筆家を手にすることになるのだ。もちろん彼らは猫背とは無縁の人種である。ーー彼らが精神の販売員や教養の「配達人」として、諸君にむかってお辞儀をするときの猫背を除くなら。


 ーー彼らは本来は何ものでもないのに、あたかもすべてを「代表」し、事情通を演じ、その「代理」をつとめて、その対価として謝金を受け取り、敬意を払われ、賞賛されるといったことを、もっともらしく引き受けたりする。ーーいやはや、専門家の学識を具えたわが友人たちよ!私は諸君を祝福したいーーその猫背ゆえに!また諸君が私と同じく文筆家たちや教養の寄生者たちを軽蔑する点でも!そして諸君が、精神を売り物にするすべをしらないがゆえに!金銭的価値で表せない見識ばかりを抱いているがゆえに!そして自分の本領でないものの代理をつとめたりはしないがゆえに!諸君の唯一の願いが、自分の専門職の巨匠となることであるがゆえに!ーーあらゆる至芸や手腕に畏敬をいだき、学問と芸術におけるあらゆるあらゆる見掛け倒し、半可通、虚飾、腕立者(ヴィトルオーゾ)、扇情的なもの、俳優的なものーー要は、研鑽と予備訓練の揺るぎない手堅さを諸君の目の前で証明することができないもの一切ーーを容赦なく拒絶するがゆえに!」

 

 

 

今日、専門家はパフォーマンスを発揮して往来を練り歩く知識人=批評家に対してますます劣勢を期している。ツァラトゥストラに出てきたあの「ヒルの専門家」のように、ある分野にとことん通い詰める者は、その専門性が持つ重さを身内に受けて猫背になるほかない。

 

しかしこの反対にもっと理想的で自由なパフォーマンスが存在するわけではなく、世間には諸処の専門家を模倣して足しげくそれらを代表するような顔をした論者、つまりいわゆる批評家のような人間たちがいるだけである。確かに前者のあまりにも厭わしい変形は避けがたい。しかし多くの人は何かを専門として、その重さを引き受けることなしには、何事も真に達成することはできない。これを省略して、半可通であちこちに顔を出して手軽な見解を配る「知識人」にこそ警戒するべきで、この点で専門家は確かに気高い。だがそれは隠者や狂人の凄みであり、依然として自然の仮像を受け入れるには重すぎるのだ。

 


 ニーチェは専門家にも敬意は称しても、われわれ(ニーチェは過去や未来に自分と並び立つ者をこう称する)はそうではないと考えている。それにしても、専門家の重苦しさを如何としたものか。「われわれもまた、おおむね学者であることは否めないところではあるが。しかしわれわれは、学者とは別の欲求、別の成長、別の消化をする存在である。」これがどれほどの誤解を生むのか、想像に難くはない。

 

 

 かような次第で、ニーチェはやはり読みにくい。私が思うに、いかなる理由であれ、傷ついた状態にある人は、ニーチェにあるがままの自分の形式の肯定や、あるいはニーチェ自身に理想的な人間像を求めて本を開くべきではない。なぜならこれは誰に対しても開かれた思考ではないし、聖書のような癒やし=解決(納得、説明、理解、反動的な肯定)の書物ではないので、負傷した状態の人間がニーチェを読んでも、この門は私には開かれてはいないと気づくだけで、むしろ傷を深くするか、最悪ニーチェに対して怨みを抱くだけだろう(そして彼はもっと手軽な信仰を求めて彷徨い始める)。

 

 

 むしろ余裕があり、自分が最初は徹底的に居場所のなく、しかも自分はどうするべきなのかも簡単には与えられないということと向き合えるときの人間が、つまり誤解を避けない人間が、読み進めることができる。(とはいえ、私はこの傷つかない鋼の精神も、ニーチェの再読を通せば「誰にでも」ーーこの言葉に含みがあることはご存知だろうがーー獲得されると考えている。)

 

例えばニーチェは弱者に一様に厳しく、彼らはいずれ淘汰されるべきだという意志を貫いている。そしてそのことに関する多くの誤解を避けようとはしない。だが、今やこれを誤読したまま、悪用しようとした人間が現れた以上、我々はエクスキューズとも向き合う必要がある。

 

 この弱者とは一般的な意味での身体的・精神的弱者、あるいは社会的弱者を意味するものではないし、いわゆる強者とは全く異なるものだ。そもそも現代において、強者は潜在し息を潜める中、弱者が満ち、強者が飛び跳ねたりしないよう抑制される社会なので、強者はむしろ自らの勝利しか知らない、社会的な弱者であり、一方で弱者は彼らの生きる現代の勝利を確信した、弱者の徳の中での強者である。

 


 ここで、私はニーチェほどの強者でないので、この弱者と強者という言葉の中に既に多くの人が生理的な反感を抱くことに気づけてしまうし、あまつさえ、歴史の中のあまりにあからさまな奴隷制や階級制度への回帰をニーチェが推奨しているのだとすら考えることだろう。このように読み取ることへのあまりに自然な流れの強要こそ、我々の解釈の持つ能力に覆いかぶさる現代性を暗に表している。この生理的なレベルにまで高められた強者への反感の念こそ、パウロローマ・カトリックが用意した疚しい良心の大仕掛けである。

(ところでニーチェキリスト教は否定してキリスト自身はブッタのような受動的ニヒリズムの人であったと捉えている。「聖パウロによって異教的神秘説へと歪められ変形されて、最後には全政治的組織を味方につけ…、また戦争をすること、非難すること、拷問すること、誓約すること、憎悪することを学ぶのである。」)

 

 

 確かに未来において強者は勝利に向かうだろうが、それは支配的な弱者のルールを破壊するという意味であり、逆に弱者が侠者のルールの中で生きることを意味する。ここでも念を押すが、「経済的強者や知的階級が強者であるなどとニーチェが言うわけがない」と知りながら、我々の臆病な思考は、ではもはや倫理などない無法の時代に回帰するのか、と懐疑を持つだろう。然り、各々が価値を創出し、世界を解釈するためには、この平準化された人間像を迫る倫理こそ最大の問題であり、怨敵である。

 

追記

 「われわれの友へ」の中にはこのような記述がある。

 「きまじめな平和主義者というのはたんに、おのれの卑劣さを理性的に直視しない人間である。かれは自分が相手どって戦っているつもりの現象の本性について、二度もとりちがえをおかしている。戦争は武力衝突にも殺戮にも還元されないばかりか、かれが賛美する集会政治の母体そのものなのである。」

 

 

 「多種多様な諸世界が存在し、生の形態が厳然たる複数性に裏打ちされている以上、戦争とは大地における共存の法にほかならない。というのも、それらの出会いの顛末を予測させてくれるものはなにもないのだから。対立は、たがいに隔たったままの諸世界では生じ得ない。われわれは、葛藤をはらんだ諸力の遊動なのであり、そこからあいついで浮上する布置はせいぜいつかのまの均衡状態を示すにすぎない。そうである以上、戦争は現前するものの素地そのものである。」

 

ニーチェ省察 二

「真理はつねに本質として、神として、最高の審級として立てられてきた。…しかし、真理への意志は批判を必要とする。ーーそこでわれわれの課題を規定しておこうーー試みに一度は真理の価値を問題にしなければならない、と」


それゆえ、カントは最後の古典的哲学者である。彼はけっして真理の価値も、われわれの真実への従属も問題にしない。この点については、彼もほかの人と同じように独断的である。彼も他の同様に独断的である。彼も他の人々も、次のようには問わない。誰が真理を探求するのか。つまり、真理を探求する者は何を意志するのか。彼の類型、彼の力能の意志はいかなるものであるのか、と。哲学のこの不十分さの本性を理解する試みをしてみよう。誰もがよく知っているように、人間は実際にはめったに真理など探求しない。われわれの関心も、同様にわれわれの愚かさも、われわれの誤謬よりもいっそうわれわれを真実から引き離している。しかし哲学者たちは、思考である限りの思考は真実を探求し、「権利上」真実を愛し、「権利上」真実を意志する、と主張する。思考と真理の間に権利上の結びつけを設定するにも関わらず、哲学は真理を、哲学自身の意志であるような在る具体的意志に、諸力の或る類型に、力能の意志の或る質に関係づけることを避けるのである。ニーチェはこの問題を、それが置かれている場所で引き受ける。彼にとっては、真理への意志を疑うことは問題ではなく、人間は実際には真理など愛していないということをもう一度想起させることも問題ではない。ニーチェが問うのは、概念としての真理が意味しているものであり、この概念が権利上どんな形質化された諸力と意志とを前提しているかである。ニーチェは、真理に対する誤った要求ではなく、真理そのもの、理想としての真理を批判するのだ。ニーチェの方法にしたがって、真理の概念をドラマ化しなければならない。


「真実への意志、これはわれわれを幾多の危険な冒険へ誘うことであろう。この有名な誠実さについては、すべての哲学者はつねに敬虔な気持ちで語ってきた。なんと多くの問題をこの真実への意志はわれわれに課してきたことか! …われわれのうちのいったい何が、真理を見出そうと意志しているのか。実際われわれは、この意志の起源の問題の前に久しく佇んできた。そして結局、われわれは、さらにより根本的な一つの問題の前で完全に歩みをとめてしまった。…われわれが真実を意志することを認めるとしても、ではなぜ、むしろ非ー真実を意志しないのか。あるいは不確実を。あるいは無知さえも。…では、このことを信じられるだろうか。結局、この問題はこれまで決して提起されたことがなく、それはわれわれによって初めて見ぬかれ、注目され、断行されるように思われる。」
(G・ドゥルーズ 「ニーチェと哲学」江川隆男訳)

 

 

真理自体の価値など必要ない。真理が問いに立たされることは、真理自体の導きの中にある。というのも、まず不定の真理を探せば、みんなその真理に従っていることがわかるはずで、真理への意志も発見されたこの真理の中で語られることだろう。カントはこの点において誤っていた。ニーチェは此れに対して真理を求める意志を要請することで、カントより前に問いを設定した。「そもそも真理を必要とするのは誰なのか?」

 


この問いはしかし、あらゆる意志を壊すアナーキズムへの回帰を意味しない。価値は不定ではないだけで、価値は批評によって別々に創造される。一見は一元性を捨てたように見える人が言う。ヘーゲルは失敗した、カントも不十分だ、ならばツァラトゥストラという多を司る彼こそ、今日から新しい神となる、これこそが否定の用意する最後の躓きである。

 

というのも、問われなかった真理への意志という点で改めて読み直されれば、彼らとてニーチェの語るものと同じように、素晴らしい概念の創出者達である。ただし彼らはある前提を無化したまま高度な問いを創出している。魚の釣り方を問題にするとき、餌の付け方を問う人と、釣り場の場所を問題にする人がいるように、これらは問題のレベルが異なるのだ。


とはいえ、ニーチェは彼らに対して、その編成を根底から覆えし得るような問いを創出しただけで、彼らに対して優越する(つまり真理への距離として先取した)、あるいは問いの価値を無化するところは何一つないのである。確かに、この必然として真理への意志を問わないとき、現実の欺きに対して空想の世界に真理を用意するとき、生の否定として生じることになるニヒリズムがいまや無への意志であると判明し、ニーチェの問いの中ではどうあっても袋小路に向かう。だとしても、これらは意志自体の一つのれっきとした亜流であり、彼らの意思自体は問われないままも清廉さの中にあり、それを間違った意思であるとして否定するべきだという考え方は、そもそも問いが用意した射程からは「権利上」用意できない。

 

ニーチェ省察 一

-p175

(「ニーチェと哲学」G・ドゥルーズ 江川隆男訳)


「高いものと高貴なものは、ニーチェによっては、能動的諸力の優越性、それらの諸力と肯定との親和性、それらの諸力の上昇傾向、それらの諸力の軽やかさを示している。低いものと下賤なものは、反動的諸力の勝利、それらの諸力と否定的なものとの親和性、それらの諸力の重苦しさあるいは鈍重さを示している。ところで多くの現象は、反動的諸力のこの鈍重な勝利を表現するものとしてのみ解釈されうる。人間的現象の事例は総じてそのようなものではないのか。反動的諸力とそれらの勝利によってしか実在することのできない諸事物がある。語ったり、感じたり、思考したりすることもできないような諸事物があり、反動的諸力に突き動かされる場合にだけ、信じることのできるような諸価値がある。ただし重く低い魂をもつ場合にだけ、とニーチェは明確に言う。誤謬の彼方には、愚劣そのものの彼方には、魂の或る下劣さがある。したがって、諸力の類型学と力能の意志の離接は、今度は諸価値の系譜ーー諸価値が高貴であるか、下劣であるかーーを規定できるような一つの批判と分離不可能であるということになる。


 ーーたしかに人は、いかなる意味で、またなぜ、高貴なものは下賤なもの「より価値がある」のか、あるいは高いものは低いもの「より価値があるのかと尋ねるだろう。またいかなる権利によって、と。われわれが力能の意志をそれ自体において、あるいは抽象的に、肯定と否定という2つの反対の質を与えられたものとしての考察する限り、この問いに対して何も応えることができない。なぜ、肯定は否定よりも価値があるのだろうか。我々は後に、解決は永遠回帰試練によってしか与えられえないということを見るだろう。つまり、「より価値があり」、また絶対的に価値があるのは、回帰するもの、回帰に耐えるもの、回帰を意志するものである。ところで、永遠回帰の試練は、反動的諸力も、否定する力能も存続させておかない。永遠回帰は否定的なものを価値変質させるのだ。永遠回帰は、重い物を或る軽やかなものにし、否定的なものを肯定の方へと移行させ、否定を肯定の力能にするのである。しかし、まさに批判とは、能動的になった破壊、肯定と深く結びついた攻撃性というこの新たな形式の元での否定である。批判は、喜びとしての破壊であり、創造者の攻撃性である。価値の創造者は、破壊者、犯罪者、批判者ーーつまり、既成の諸価値の批判者、反動的諸価値の批判者、下劣さの批判者ーーと分離出来ない


 今日、ニーチェのような個人的な功利主義、解釈至上主義者というあり方は、思考に確信を持つことが益々困難な思考である。なぜならそのようなあり方の積極的な差異の意志は「結局、やってることは反対側の人間と『同じ』じゃないか?」という同一性への回帰を画策する者によって撹乱される。区別不可能なもの、それは常にあまりに早く同一性に接近させられる。これだけでなく、些細な筆の走り自分自身に懐疑をもたらし、本当に自分の思考はニーチェを開始しているのかと、何度も自家撞着に陥ることになる。あるいは、もっと根本的には、自らの唱える思考の形式が、形式自体の内容として矛盾してはいないのか?思考を開始するために、あるいは多くの中で価値を専横するために、自分の思考のあり方に部分的にでも背いているような有様では、その思考は正当なものではないだろう。

 

例えば意志そのものを意志するというあり方ーーナチ=ハイデガーが行った「力への意志」を欲望するーーではなく、意志は自らのあり方をあらゆる形で創造していく。意志にはそもそもモデルも主体性もない。しかし意志を思考し問題化するとき時、そのあり方を定まった形に収めようとするこの思考の流れに抵抗することには、今や甚大かつ細心の努力が必要になる。

 

 そしてこのような逡巡に浴びせられる「肯定」と「否定」の二者択一の深淵は、そもそも思考を脱輪させようとするオイディプスの誘惑が(しかし本義から言えば違法ではなく、まさに多の中の一つの思考として、だが多を簒奪する征服者のやり方をもって)潜んでいるのである。

 
 

 とはいえ、ニーチェ平等主義者でも博愛主義者に成り下がることはない。平等とは疚しい良心の見せかけの善性であり、ギリシャのような善さを転換するキリスト者という弱者の十字架を背うことで逆に高みへの出力を捻出した、いわば高利貸しの、絶対に自分自身のものではない道徳である。ニーチェは能動という肯定性を強く欲する。またそれは主人と奴隷の対立という対立と止揚主義、また競争主義という否定性への肯定でもないし、むしろそれらの能動的な破壊である。だが破壊スべきものが存在する時、それはまだ自由ではないだろう。

 

 ニーチェに関するドゥルーズの多くの解釈は、ニーチェそのものに依拠するようで、そこから発しながら最後には決定的に彼に依拠していない。言ってみればこれは彼が意志する(そう合って欲しい、そうあるべきだ)ニーチェであり、ニーチェ自身ではなく彼から由来する力能について、ドゥルーズ自身が語っている。そこにはヘーゲルのような、「◯◯において」というごまかしはない、これは彼と、しかしその最初から彼だけのものではない)ニーチェが共に向かう方向である。ところでこのような方法こそ、まさにもはやニーチェ的でない場所(場所という言葉は力能の非ー定在性に反している)で、彼を忘却しながら、ニーチェの思想を反復する、永劫回帰のやり方の実践だと言えよう。


 このような段階を経て、ニーチェはわれわれにとって最終的に、あるいは来るべき新しい人にとっては最初から忘れられるべき存在だと思う。ただただニーチェを開始さえすれば、快癒した人が病床の苦痛をさっぱり忘れるように、そもそも彼が何を言ったかなど何の問題でもなく当然になり、否定性は癒えるはずだ。われわれの多くの(あるいはわれわれの中に執拗に根付く)砂漠に向かった人々のイデアの苦しみは畜群の群れの無知ゆえの、最も哀れを誘う喜劇である。この逆に強い人々は最初から悲劇に向かい、一=多であるディオニュソスの傍らに在る。