メイヤスー4章 resume

カンタン(簡単)・メイヤスー「有限性の限界」
横山 祐
「第四章 ヒュームの問題」
………

第四章の解説

 

 


この章のキーワード
・ヒュームの問題
安定性/絶対性
・頻度の帰結

 

 

 「私達は眼差しを非理由に転じねばならない。非理由をこの世界自体の真なる内容にしなければならない。」世界から絶対的なもの(意味の意味、全くの他者、存在論的命題等)を抜き取り、全てを偶然性に委ねる。=全ての確実性を疑うこと。安定性は必然ではない
 しかしそれはパラノイアになる(p161)ということではなく…
「事物は実際にいかなる理由もなしに、最も気まぐれな動きをとりうるが、しかし私達が事物と結んでいる通常の日常的な関係を全く変えずにそうできるのだ、と真剣に認めることができる(P141」という主張に依拠しなければならない。。
 なぜなら


 ヒュームの問題とは…
 外部的な存在者によって説明される可能性を捨て切らないところに恒常的な哲学の問題系があり、解かれることのない永遠のエニグマというソースが存在している。結論は原因に帰納できない、という真理への懐疑論である。(因果的必然性)
科学/哲学においては、「同じ最初の条件からは、同じ結果がつねに起こるだろう」という前提が担保されている。メイヤスーが新たにこに切り込むのは「発見された法則の永続性」である。理性に従えば、100の結果を引き起こす原因はそこから結果を生じさせる。しかし、100回の結論から原理を生成しても、それを101回目が崩す可能性は残り続ける。
ビリヤードを100回突いたら100回同じ結果が出る、と考えるのは安定した理性の世界では当然だ。だがもっと大きな公準に立つなら、それらはまちがった帰結のはずだ。


頻度の帰結とは
  もし法則が頻繁に変わるなら変わってるはずだ。でもそうはなってない。法則は基本的に変わらない。これは「安定性」に関する帰結で、「絶対性」に関する帰結ではない。「変化する」とは「頻繁に変わる」という意味で、万に一つなら変わることがある、という意味ではない。(155~158)
 
頻度の帰結に従い、「安定性」が「必然性」へと上昇してしまう(p159)が、これはヴェルヌによれば「思考可能/経験可能」の違いのためである。「アプリオリなものが私達を偶然性に直面させるのであり、逆に、経験がそれに対して必然性を対置するのである」

ひとしく思考可能なものは等しく起こり得る(ヒューム)(160p)という定理はまた、思考可能/経験可能の量的ひとしさのために帰結される。だが、偶然が思考可能だが経験(不)可能(非常に稀な事態)に遭遇した時、「世界が全くの(toute)偶然で別様に変化」しても、我我は「何か仕掛けがあるんだろ?」と前者の定理を適用し、隠された定理のためのカテゴリーへの思考に向う(p161~2)


 だが我々はしばしば内的な経験を宇宙の法則にまで昇華する。我々は理性の及ぶ範囲の世界観でのみ適用できる、偏(≠遍)在的で「外宇宙、及び外数学の世界」(カオス)ではおそらく可塑的な法則を用意する。それは理性の(おそらく統合失調的、陰謀的にならないための)安全弁だが、第二の穴(カオス)に放り込むべき「真なる例外」的状況(本質的には全て「真なる例外」的で在りうるのだが)が、第一の穴「すごい偶然」にすべて飲み込まれてしまう。(161~163)
 
 宇宙サイコロとは…(これいる?)
 思考可能な面しかない(我々の)宇宙法則についての超デカイサイコロ。ごきげんようサイコロ(何が出るかな♪何が出るかな♪)に「突然、死ぬ」とか書いてないでしょ。多分そんな感じ。


想定できる反論への論駁(要旨補強なので時間がなければ読み飛ばして可)
 Qエピクロス派’(生命の合目的性を尊重する人々)
 世界は無数のカオスが何度も失敗したあとにようやく生成した合目的なものだから、安全な結果以外起こりようがない。(p164)
 
A自然法則の必然性を想定している。「自然法則の偶然性は、偶然についての議論では到達できない」(166)自然法則の偶然性は偶然のめぐり合わせと混同されてはならない(第一の穴と第二の穴)(p166)


 とはいえ、この偶然性を単に全くのカオスとしてジャンクヤードに投げ込んでは今までと同じなので、この概念に向けた「カオスに関するなんでもいいのではない条件の探求」を豊かにしなければならない。それは「数学」=超限数によって果たされるだろう。(168)


数学的思考においては「頻度の帰結が機能するためには、矛盾なく思考できる可能的なものの全体が存在していることを想定して、次のこの全体が、その濃度がいかなるものであれ、物理的に可能な出来事の総体より甚だしく大きいと措定することだけが必要」だ。(今までの確認)(170)


しかし、カントール集合論者)によって「数の非全体化」つまり「超限数」が発見されたことをアラン・バディウが「存在としての存在」の思考の手段として重要視したように、改めて数学と哲学を取り持つことで発展すべきだ。


超限数とは(この場に数学の識者がいたらもっと詳細に解説していただきたいが)
 特定の作業を加えればかならずAよりBのほうが大きいという数式を取れるとある計算を用いると、無限に対して(より多く)になれる方式が存在する(∞+n)これは無限という(X)的概念の深層を破壊する。


カントールの超限数を通して、「思考可能なもの」はその全体が実は「思考不可能な」ものであることを証明できる。そしてこのように我々は外部に対して無知だということは、我々が経験の外部にあるカオスに対してその経験から帰納的に演繹された概念を適用するのは誤りだと言うことが出来る。「私達が所有する、そうした確率論的推論を正当化する諸所の全体性は、《私達の宇宙》のまさしくただなかで、ーーつまり経験という道を通じて与えられねばならない。(176o
 これについてカントが超因果的な偶然で獲得できる認識など存在しないと考えたが、そのような超因果的な偶然が起こり得ないと知ることはアプリオリな必然ではない。(178


 可能的な世界が《全体》をなさないという思考をすすめることで、表象の偶然的な無秩序のほうこそをむしろ起源的な状態として捉え、またカント的な超越論的作業を詭弁として取り下げることができる。(178~180) 
 
偶然(hasard)と偶然的(aliéatoire)はどちらも可能的世界の中の賭けを母体にした、賭け及び確率論的世界の言葉だが、偶然性(contingence)はラテン語のcontinfere(到来する)を持ち、偶然というのが最後は「到来し」収束し結果することを意味する。だが偶然の思考の外に一筆を画定し思考する方法は、あくまで数学である(181~2)(とメイヤスーは考えている)


 今までの哲学は外部に関する思考に嘆息するだけだった(特にウィトゲンシュタインハイデガー)。だが今や形而上学の試みとして、超限数を数学的なひとつの例外としてではなく、無限における一つの判例として思考する必要がある。「カオスの潜在性の超ー莫大性が、目に見える世界の完璧な安定性を可能にしている」つまり、カオスが観測可能であるからこそ、カオスが有限の反対として思考可能性をもたらしている。基本的に我々は安全性を手放す必要はない。だが「祖先以前性の問題」を思考するためには、今持って数学的言説の絶対性を取り返す必要がある。
 


 感想
 ・メイヤスーは手法的にはオーソドックスな弁証法を多様する。「Aは◯◯と言っている」「しかしAには◯◯という誤謬がある」「Aは間違いである」を繰り返す。そのため論を補強する過程が長いが、結論は比較的に簡単に抽出できる。
 世界の「判例的な」変化(自然法則やビリヤード)を思考することで数々の自然科学的発展を遂げてきた近代からすれば、今「ありがちな変化のその先を疑え」となるのは当然の帰結だろうか。
 ・文体のレベルでいえば英語で同時発刊できるくらいにはすっきりしていて論旨にもエニグマがない(魅力がないと言ってもいいが)。とはいえ現代哲学の直系を匂わせる
 ・かつてアラン・ソーカルは哲学内のレトリックでもって現代哲学が数学を「滅茶苦茶に」解釈していると批判し、世界で取り沙汰されたが特に日本ならニューアカ世代がやたら打撃を受けていた。おそらく数学と哲学を利用するアラン・バディウの影響下にあるメイヤスーはこの間を取り持ち、再び科学的言説と哲学を合流させることを目的としている。(デカルトが「数学は世界を解き明かす最高の定理」としていただけに、新なる反デカルト主義とでも言うべきか?)一方でメイヤスーはマラルメ論もかいていて、文学嫌いというわけでもない。バランス感覚に長けてはいる。
 ・超因果的な経験が起こり得ないと我々が知ることはできないと指摘するのは、カントを批判しながらもカントの「純粋理性批判」の論旨にそっくりだ。先祖帰りというか哲学の本堂帰還を狙っているのだろうが、あくまで「科学」との共闘を狙う以上、文体や論旨に飛躍がないか注意深すぎる気がする。
 ・全体的に手堅く反復も多いために「まぁそうだよね〜」という印象で全員が納得するのではないだろうか。しかしだからこそ、我々には改めて「何言ってんのかわからんけど、なんか凄いこといってるぞこいつ」というドライブ感がの方が必要だ(と俺は思う)
この章の結論
我々はいちいち取捨しているIF(もしも今北朝鮮からミサイルが…)のようなストーリーを可能性としては取り合わないが、それらは経験から来る演繹からナンセンス(なぜなら理性はそのような物語を拒否する)なのであり、三章で確認したとおり現実の世界そのものの非理由的な容体だとは帰結できない(107p)
 しかしカオスはそれ自体が豊かにならなければ意味がなく、思考可能なものの境域を拡大しなければならない。そこで、例えば超限数を用いて、今までカオスの代名詞だとされてきた相関主義的な(X)(任意の外部概念)のダンスステップの信頼や神秘性を打ち崩すことが必要になる。

 


この章で批評的に使える部分
・概念の観察と指摘
・数学的概念の応用(今後重要になるのでは)