「人喰いの大鷲トリコ」と「watch_dogs2」の視点批評

あくまで簡潔に「人喰いの大鷲トリコ」と「watch_dogs2」の視野についての批評を。

 

 


PS4ゲーム「人喰いの大鷲トリコ」のカメラの悪いところは大きく上げて3つ。
・マチが大きすぎてすぐ反応しない。←これはすぐ改良されていい気がする。
・L1でトリコを見上げようとするとトリコしか見えなくなる。
・FOVが狭すぎて遠景がほとんど見えない。
・酔う ↑上記の原因により


しかしゲーム性を考えるとこれが一概には悪点とはいえないし、きちんと説明するべき良点でもあるからすこしだけ記す。

 

 


いわゆるFOV(field of view=視野角)の広さというのは「プレイしやすさ」という点で明らかに「大きければ大きいほどいい」という理論になりやすい。特に対人FPSだと死角の狭さが命取りになりかねないので、全員限界まで上げていくスタイルになるだろう。例えば今プレイしているPCの「watch_dogs2」は短い時間で多くの情報を収集する必要があるため、かなり開けたFOVになるし、特にオンラインのハッキング戦だとまず敵をみつけないといけんからカメラも感度最大で限界までぐんるぐる回しまくる。かなりプレイヤーよりのカメラ使いなわけだ。

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 極めつけは運転時で、このときは言うまでもなく多くの情報を収集しなくちゃいかんという関係上、視点が明らかに運転手の視点から乖離してプレイヤー側の都合のものになっている。トリコとwatch_dogs2のFOVが好対照をなすのは、ゲームの方向性としてwatch_dogs2が「超身体的」でメタキャラクター的な視座に立っているからだ。
 watch_dogs2は電子機器にハッキングをすることでプレイヤーから視点だけ乖離し、監視カメラやドローンを媒介して複数の場所を見ることが出来る。この時アバターはカメラを操作している関係にあるが彼等にとってそれが二次情報であり、同じくプレイヤーにとっての二次情報(間接的に見ている)と同格になるため、ここではプレイヤーは擬似的に「直接見ている」と誤認しなんか自分でみてるような迫真感=リアリティを感じたりする。

 Media preview

これが例えば3DCGアニメ「亞人」でも多用される表現でもあるがアニメというメディアの中でyoutube風の動画のフルスクリーンを見る時それがアニメ内の表現である前に擬似的に視聴者はその動画を直接見ているように錯覚するわけだが、ガワが3Dならではの表現手法だと思う。

 

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 拡張する視座あるいは超アバター的なワイアード空間とシームレスに意識が連続する主人公の意識に接続する我々はあるいはサイバーパンク的な超肉体的存在へとシフトしていると考えることもできるかもしれない(とかなんとか)

 


んでこの例と完全に対称性をなすのが人喰いの大鷲トリコの少年。


このゲームのカメラのFOVが極端に狭くて全体を視野に入れづらいのはゲーム性として用意された経験で、主人公の少年であり小さな視野しかもたないという性質を極端に反映して、そこにプレイヤーの経験幅も寄せている。要するに「子供の視点で見る」ゲーム。少年の視野角では全体を俯瞰することはできないので物を見つけたり出口を探したりするのも苦労する。そこで、例えばトリコの背中に乗って高い視点を得ることで初めて「俯瞰」できるというようなゲーム経験も用意できる。

 

あとL1を押すとトリコを収めるような画面に成ると多くの場合必然的に少年がフレームアウトするが、これは多分トリコを見つめるという運動がwatch_dogs2のカメラを通したイリュージョンのようにプレイヤーにとって直接的な経験になるような仕組みを意図しているんだと思う。要するにトリコを見る時にはプレイヤーにとってトリコを直接見るような状態にしたかったんだよ(※多分)。

 

<同日午後6時追記>

トリコの背中やしっぽを掴んだまま飛ぶとクソ狭いFOVのカメラが無茶苦茶に振り回されて時々何が起こってるのかわからんことになる。ただこれは大振りな動きを想定していないアバターの少年の視線が文字通りトリコのスケールの違う動きに「振り回されている」状態を表現していて、慣れるとトリコの動きの大きさや本当に自分が巨大な獣の背中に乗っている感が出て気持ちがいい。先述の車という「乗り物」の経験と異質なのは、車を乗る=支配しているのではなく、獣に乗り付けている=支配されている状態にあるので、ここでカメラがぶん回されるのは完全に正しい。エピックな経験だ。

 


 あとこの経験はそのままトリコとのコミュニケーションの困難さに置いて顕在化する。トリコはまぁ結構言うこときいてくれなかったり思った通り動いてくれんかったりするが、これはトリコのAIが無能だからコミュニケーションが取れないんじゃなくて、トリコとのコミュニケーションの中の一定の不可能性がAIに仮託されてランダマイズされているだけで、動物とは言語でコミュニケーションするわけじゃないから全てを汲んでくれるわけがない。動物とのコミュニケーションは多分、伝わらないけど「多分伝わったやろ」感とかが重要なわけで「わかりあえた」「伝わった」という喜びが伴うにはそれが常に「分かり合えないかもしれない」という崩壊の可能性のもとで機能している必要がある。相手とは本質的に分かり合えないかもしれないという緊張感がゲームには必要なんスよという話。 

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(クッソかわいい大鷲君)


このための結局はトレードオフとしての極端なプレイ経験の困難さと不自由さであって、これがないとゲームとしてはエッジが立たない(例えば他にはフロムのソウルシリーズにおける少ないリソースにおける鬼難易度とフレーバーテキストとか)であり、この辺を絶対に誤解してでかくて広くて不自由ないゲーム最高〜みたいな馬鹿なアメ公は低評価をつけるに決まってるので誰か擁護しとかなきゃよ。


つかトリコ(のAI)は「ピカチュウげんきでちゅう」のピカチュウよりは遥かに有能だよ。つかあのゲーム音声操作オンリーとかちょっと未来に生き過ぎかよ。

 

 


終わり。(一時間で書いたクッソ雑な記事)


(そういえばこれの基底概念の「不可能性の経験」について俺はエクリヲ五号で書きました。買え)

ecrito.fever.jp