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空間についてつらつら

 師走ですが、僕は全然忙しくないです(ノージョブでフィニッシュです)(今年一つお仕事もらったので、来年は二つにしたいね)

 

 カメラワーク論が少し長じて、今回はゲームと映画においてちょっと思う所を。

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 小津の『東京物語』はまぁ非常に有名だし何回も論議されてるから今から触れるのもどうなんだ問題あるけど、この平山医院のカメラワークはなんど見ても新鮮さがある。それは我々がひそかに持っているカメラにこう動いて欲しいという生理に全て背いているからだ。

 複雑で入れ子状になっている日本の平屋において空間は格子(グリッド)状に配置されており、一人の人間をカメラが迎え入れるときですらその動きを動的に捉えることはなく、動き自体が空間によってぶつ切りにされる。建物の中での人員の動きがその能動性によって捉えられることはなく、他の人員との出会いは全て「唐突」に演出される。

 これはそのまま日本の「サザエさん」的複数世帯の混成を表象していて、常に画面の横から唐突に現れる新規の人員は別々のコミューン(夫婦同士の親密な間柄から、家族としての形式的な間柄へ)複数の生活空間の中で横断的で不確定に定まっていることを表している。(例えば子どもたちは大人が歓談する場所に境域的な女性を介さなければ入っていけない。これは現代の感覚からすると少しいびつに見えるだろうが。)

 

 そんで俺は初代しかやったことないけどバイオハザードにおけるゾンビの登場と小津映画『東京物語』の関係性。

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 初代バイオハザード(4以降は完全にカメラ追随型だが)では、西洋の洋間を舞台にしながら、狭い道路を主体にカメラが移動していく。広い空間にあってもカメラは非常に狭い空間として寸断し、常に画面の中で見えない部分が存在する。これが意図する所は明白で、常に見えない所からゾンビが現れる恐怖をプレイヤーは一定量担保することになる。ただし小津のカメラよりは親切で、いわゆるイマジナリーラインみたいなのを超えることはない。

 問題はそれがゾンビ自体の早さより先にその呻きによって代替されることで、常にゾンビの身体は遅れてやってくるという点にある。ゾンビは次のカメラの角度からすればまるごと収まっているかもしれないが、それは今の自分のカメラからは見えないしわからない。ここがカメラの不親切とでも言うべきポイントで、出現はつねに奇妙なうめき声によって先行される。(音が現前に先行するというJオング的状況とか書きたかったけど読んでないのでコンプラ)

  

 

 更にこれを再び「東京物語」に照射すると、平山医院は楽しい歓談の場というよりは、ホーンテッドハウスというべきが正しいのではないだろうか、という試論。つまり複数の境域的な身体が一つのカメラの中に収まらず別の場所に存在していくことをカメラの限定性によって常に印象づけられることで、カメラには一人しか映っていなくても(あるいは誰も映っていなくても)、どこかにいるだろう別の存在の刻印が常に映像の中でこだまとして響きわたり、幻視されることになる(『お父さん、お風呂!』『お母さん、何の話?』の掛声)。よく歳取った主人公が昔来た場所を見渡したら、子供の頃の自分が横を走り抜けていくみたいな演出あるじゃん。あんな奴に近いイメージ。おーい、これだけだと絶対誰かもう言ってそうやな。

実はオカルティックナインとかアニメの話にしたかったんですけど、今日は左様な感じで。

 

おわり。