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部活ものアニメの系譜 けいおん・ユーフォニアム・バンドリ

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バンドリ三話見てて、いわゆる「けいおん!」以後の演奏部活ものの系譜がまた更新されてしまったなと強く感じた。(この記事は雑で導入とかを端折ってます。できれば「けいおん!」「響け!ユーフォニアム」「BanG Dream!」の視聴を推奨します。)

bang-dream.com

 

もう全員忘れてるだろうが、けいおん!というアニメが2011年?にあった。特筆すべきその「部活系アニメ」としての特徴は、

 

①恋愛禁止(男は全員死んだ)

②事件が起こらない(少なくとも彼女たちのアイデンティティを貫通するような事件は)

③成長的描写を挟まない(ジュブナイルを経ないので)

 

という所だ。当然物語にあるべき姿などないので、この特徴にも良し悪しはない。ただそれ以後作られた作品に、以上のような特徴がある程度審級に付される。GJ部ゆゆ式、人生、みんないい奴らだった…。

 

ところがけいおん!のあと、京都アニメーションが「響け!ユーフォニアム」というアニメをやるから話がややこしくなる。「響け!」は吹奏楽部の話だが、ガチもガチ。お遊びなし休み無し競争と裏切りの社会が一話から始まる。この特徴はけいおん!と完全に相反する。つまり

 

①男女恋愛あり(ただし女性相手も匂わせる)

②事件は起こる(しかも主体的に動かなければならない)

③成長する(演奏の技術、及び社会性)

 

要するに全然楽ではない。

 

この対比は簡単に言えば視聴の社会へのリアリティという点での対比を見せている。

 

つまり君は部活はガチ派?それとも楽しければいい派だったか?

 

けいおん!は部活をユートピア化し、非常に少ない人員でできるだけ事件を回避するように進む、事件が起きるとソーシャル=関係が変動するからだ。当然部活の内容は問題ではなく部活というゆるいつながりの形式が重要であり、特別に達成目標を定めることはない。ただしその次善策としてメンバーの仲から離反者が出ないように恋愛禁止、退部禁止と暗に網を強いている(禁止自体は見えにくい)。この点一見透明性が高いようで息苦しい世界だ。だからこそ目標がなく、他者との強い接触を避けているという問題を回避するための建前が正常に機能する。

 

ユーフォニアム吹奏楽部の部活は逆に初めから大会出場という目標を達成する自体を目的としている厳しい集団だ。目標がある以上部室というソーシャルは非常に強い規律意識と目的で排他的になるが、だからこそ辞めやすく、入って順応してしまえば居心地がいい。ただし主人公自身から「うまくなりたい」という動機を引き出させたのはなんと11話で、まず強い協調性の軛があってそれに対して個人が従うかどうかは実は問題ではなく、崇高な全体の目標に個人がキャッチアップするにかは時間差がある。やはり非常に息苦しい世界だが、逆に言えばそこには何か報酬が待っているような気がする。やりがい搾取のブラック企業、と言ってしまうのは酷か?

 

この点問題になるのは、部室という場所の捉え方だ。部室でだけは他人とぶつからない私的な(日本的な)内部にしたいというのがけいおん!、むしろ部室をこそ公的な(欧米的な)外部にしたいというのがユーフォニアムだった。けいおん!の部室では極めて個々人の希望や欲求が優先され居心地の良さを最適化しているし、演奏も厳しくは見られない。対してユーフォニアムの部室は厳しい空間だ(部室では油断も冗談もない)し、演奏にも厳しい評価の目が入る。

 

 ここでバンドリが現れる。バンドリも部活ものアニメだが、これは上記の問題に改めて一筆を投じることで、部活ものアニメの系譜を更新することになった。

 

 このバンドリ、とにかく主人公がすごい。主人公はとにかく学園生活をエンジョイしたいという欲望のもと、色々な部活を試した果てに、とあるギターと運命的な出会いを果たしてバンドを始めようと考え始める。彼女にとって(けいおん!平沢唯とは異なり)バンドとギターはそれでなければならないものである。だがバンドを始めることより先に、彼女は「何かしたい」という漠然とした衝動のほうが第一次のようである。

 

そして三話でまだギターもひけないままライブ会場に飛び出すというおそろしいシーンに突入する。主人公の女の子はまだバンドファンの立場でバンドすら結成していないが、知り合いのバンドが飛行機の不備で遅れ、間が持たなくなるとわかると、突然友人を引きつれてバックステージから飛び出し、友人にはカスタネットを叩かせながら(カスタネットは「けいおん!」一話で主人公の平沢唯が唯一引けた楽器として思い出深い)「きらきらぼし」を歌い始める。おそらく六分程度。最後にはもうひとり友人がかけつけて簡単なベース音をつけてくれるが、それでもその幼さを露骨にあらわにする演奏をして場を持たせるためだけに延々と続ける。

 

 この場面を見れば誰もがゾッとして、誰もが再生を止めたくなるはずだ。だがこれは実は先に上げた2つの作品が持っている問題を止揚した形になる。思い出そう、けいおん!世界では私的な場所から出られず、大きな達成感を得ることができない。しかし逆に「ユーフォニアム」の世界では達成感の代わりに、安全な場所と肯定を確保することが難しい。

 

 ならば2つの同質の解答が考えられる、部室という空間について、「私的な場所」を公的にするか、「公的な場所」を私的にするか、だ。要するに、

①自己達成すべき厳しい場所を甘々にしてしまうか、

②甘々な場所で自己達成してしまうのか。

 

 前者は個人の内的な感性を通して(つまり思い込み)、後者は環境によって(つまりお情け)達成されるだろう。だがこの場合、バンドリは両者を通して達成したことになる。本来、ライブ会場というのは散々練習した主人公たちを試す試練の場だ。それをよりにもよって最初にやって、しかも未塾なまま続ける。それに対してなんだかよくわからんがやりきった感に観衆も拍手を送って大団円になる。相当気持ち悪い場面だが、これ我々が望んでいた空間によく似ているような気がする。そうだ、これyoutubeだ。

 

 youtubeおよびニコ生とは視聴者一体型コンテンツであり、視聴者との近さが非常に両者の間に横断的なコンテンツを形成する。あまりにも孤高だったりうますぎる芸を提供されても賛意を表明しづらいし自分がいいねを押しても彼には無数のうちの一つでしかないだろうと肩を落とすはずだ。むしろ逆に、少し下手でも頑張ってる感が伝わってくる健気なもののほうが「推し甲斐」があるのがわかるはずだが、これは明らかに成長途中のコンテンツであるのがわかるほうが、賞賛することでその貴重な一票がコンテンツを育てていく感覚があるからである。つまり今、コンテンツを作る時「拙さ」「未完成さ」を強調することははからずも手落ちではない。確信犯的に機能させている地下アイドル達の状態を見れば明らかだ。

 

 というわけで、実は「バンドリ」ってバンドというよりは「地下アイドル」アニメなのだ。そもそも高校生バンドの演奏にお金を払うなんて、自分が育てていく感覚を共有するため以外にない(だから彼女たちはちゃんとライブハウスにサイリウムを持ってきている)。なんとも陳腐だがリアルな、演者と視聴者の境目の蕩尽。つまり、私的で公的なものという「第四の壁」を超えた夢のような空間が「けいおん!」が放送されてたった五年の間に達成されてしまい、その欲望に答えるようなコンテンツが現れてきて、部活の性質にまた変化が訪れたというわけだ。ハイブリッド型とでもいうべきこのSNS的な空間は、多分今の視聴者にとってもかなりリアルなものなのではないだろうか。

 

 一応指摘しておかなければならないが、 このyoutube的空間はもうかなりアニメの表現でも出現して浸透している。例えば「アイドルマスター」ではライブ場面に観客の顔やリアクションが出ることはそうなかったが、「アイドルマスター シンデレラガールズ」では、後半島村卯月がミスりまくる演奏に対して観客がフォローを入れるという場面がある(ちなみにこちらもシリーズ監修はバンドリと同じ綾奈ゆにこ)。綾奈ゆにこはキンプリの応援上映なども評価していたが、このyoutube的な相互補完コンテンツの能力をかなり高く評価しているのだろう。この演出はいわばそれを過剰にさせた結果だった(成功したかどうかは別にしても)。

 

 ただし視聴者に対しても未熟で未完成なコンテンツの穴を見せつけることでその応援したい気持ちを買うようなやり方は、からくりが割れているだけに正直やられすぎると鼻につく(もちろん嫌いではないが)。大体バンドリのメディアミックスで、声優に楽器渡してバンドやらせているが、もちろん上記の構造の完全な複流だ。だが、付け焼き刃でライブさせて、果たして出来上がったものを提供されるのか怪しい。ファンは応援すると決めたものならもうそういう所も愛しいんだろう、「あばたもえくぼ」という奴だ。しかしこれについては、そういう自堕落な構造を露呈させて冷水をあてたいというより、それを了承した上でなお何に乗るべきかを見定めるべきだと言いたい。