イカを焼いて食った

タイトル通り、これよりイカを食った話を始める。

ことは今日の夕方、昼から原稿のために喫茶店に詰めていて、心地よい虚脱感と共に帰りのスーパーに寄った折に、半額になっているイカ(全身)を発見して「あれ、これ食えるんじゃないか?」と考えた所から始まる。

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(写真はサンプルだが「アニサキスに注意!」と書いてあった)

断っておくが調理は好きでメバルやらイサキやら普段出回らない目新しい魚は大抵焼いて食っていた。その感覚でヤリイカも「焼いて調理するぐらいなら…」と合点し、不安になって聞いてみたものの、「かんたんにさばいて内蔵取り出して焼くだけで美味いヨ〜」と馬鹿でかい声で呼び込みをやってる店員のフィリピン人の言葉を信用して、浮かれ気分で小さな冒険に乗り出すことを決定した。



さて、帰って味噌汁やら他の品の調理を適当にこなしながら最後にイカを取り出す。よーしパパ頑張っちゃうぞ〜wとか適当なことを言いながらビニールを割いて胴の部分をぐっと触った。

 その瞬間、「あっ、違う」と呟いた(気がするが実際は絶叫した)。それより早く脳がいきなり最大出力で稼働して手指に指令、まるで熱いものに触ったかのようにイカを離して、イカは調理台から滑り落ちて床にぬちゃっと嫌な感じで落ちた。床の上に落ちたそれはあのデフォルメされた「スプラトゥーン」とか「イカ娘」のイカじゃなく、とんでもないリアリティーを持ってれっきとした生命としていきなりドカンと食卓に挙がってきた。生態学的に言うなら軟体動物門頭足綱十腕形上目(Decapodiformes

)です。

 今思いだすと手に持った瞬間、どこかぬめりを帯びてつるつるした触感を手に届けたがそれ以上に確かだったのが重量とディティールだった。内臓が詰まってて結構重い上に脚がまるで生きているようにゆらゆらと動いたので脳が「まだ生きてるじゃん!!」と判断したっぽかった。それよりそこで初めてイカは気持ち悪いという衝撃の事実に気がついてしまう。

キリスト教ユダヤ教では「鱗のない魚は食べてはいけない」とか教えてるそうだが、あれは割りと的を射ている気がする。イカはもうなんか世界観が違う。魚は形とか保ったまま調理場に乗るのだが、イカはどういう論理で動いてるのか外見から全く想像できない。大抵の人は脚を見るが、あれの恐ろしい所は頭の部分である。胴ぐらいだと思ってゆっくり昇っていった視線がふと白い外皮に浮かんだ2つの黒点を発見する。その眼が意外と大きくてその2つがこちらをぎょろんと見ていると感じた時の総毛立ち方はすごい。というかどこからが頭でどこからが胴だよ。あと頭の外皮が全部可食部分なのどういうロジックだよ、わからん…わからん…

この時点で絶対触りたくないし指つっこんで内蔵抜ける気なんてしなくなっていたが、ふとあの良質な蛋白質は火を通すとかなりしゃっきりした外側になるのを思い出して「しっかり火を通した後なら触れる…?」と機転を利かせて、とりあえずグリルにぶっこんで焼けてから内蔵処理に当ることにした。

だが、菜箸で摘もうとすると予想通り重くて何度も失敗する上にゲソの動く様が強烈なディティールを与えてきて、グリルに入れるときはもう泣きながら「こんなん食えるわけないゲソ」という気持ちだった。

 

閑話休題。本来、イカというのは刺し身とか下足とかそういう「食べ物化」した状態でお出しされているのであって、イカ(全体)に接する機会はそうない。あるとしても、それは内蔵やら目やらを抜かれた「串焼き」状態になって出てきているわけである。イカ(全体)は部分を包括する全体として生息しているわけだ。そしてイカ(全体)は途方もなくキモい

 

新しい食べ物に手をだす時に、自分の反応がどれほど生理学的に理にかなっているを冷静に見聞してみて欲しい。例えば白子はまったりとしてくさみもすくないとても濃厚な味わいだが、あの見かけと触感を人間が信頼して常食するには途方もない条件付けが必要になる。今までの知識から言ってもそれが美味しいものだと脳が判断していても、咀嚼したときに「カリッ…」とか「ブチュ…」とか見知らぬ触感がしたらすわ脳が「出せ出せ出せ出せ」と指令を出してきてうべっと吐き出してしまう。そんなわけで白子を楽しく食べられるようになるには結構な時間がかかった覚えがある。あと牡蠣なんてよく考えるとすごいキモい見かけし味もかなりトリッキーだよね。あんなん生で食うとか現代以外だと罰ゲーム感ある。

 

 ところで人間のキモい食べ物の認定は往々にして多分先祖がそれ食ってひどい目にあったみたいな条件付けによって成立しているというのが自論なのだが、その沿線でいくと「ぐにゃぐにゃしてる」「ぬめってる」「ヤバイ色してる」「臓器見えちゃってる」「触覚がある」「棘がある」辺りが特徴として上げられるだろう(文字に起こすだけでキモい)。これらを叶えるのがタコ、カエル、カタツムリなどいわゆる「ゲテモノ」である。そんなもんでも料理にしてしまうのがいじましい。その点、イカは確かにヤバイ色はしていないが、あの形で泳ぎ、可食部分と内臓が相当近いので、食べ始めてからも美味しい調理法が確立するまで相当な時間がかかったといえる。大体、よほど腹減って食うもんない限り、原始人だって魚食いたいでしょ…。

 

七分ぐらいしてイカが焼けたらしいチャイムが鳴り、グリルの中から出てきたのは焼き色がついてちょっと食べ物ライクになったイカ(全体)だった。これはいけそうだと思ったが、手に持とうとすると笑いが出るぐらい身体がビビってしまい、調理台に載せるというより箸で打ち上げるという感じになった。

 ナイフで側面をおそるおそるかっさばいてみると全然火が通ってないため、生っぽいデロデロがどんどん出てくる。多分外皮がすごく優秀でほとんど火を通さないんだろう、とかそんなことはどうでもよく、キモすぎてなんかシンクに落とすだけ落としてキッチンペーパーで拭うぐらいが限界だった。手で拭う?オイオイ、直接触れる気がしないが?。あと頭からバリボリ食えるぜ!となんとなく思っていたのだが、なんと頭部には軟骨があって絶妙に火が通らない上に眼を摘出するという悪夢のような作業の存在に気がついてしまった。魚の眼にはDHAという脳に良いらしい成分が沢山入っていていつもちゅるちゅる吸っているのだが、このイカのぎょろっとした眼でそんなことやったら永遠に癒やされないかさぶたをボリボリとかきむしるインスマウス顔になりそうだった。

 というわけでなんとなく黒っぽい(墨?)を取り出して紙皿の上においたそれの横にマヨネーズを載せると料理とはとても呼べない未開民族めいた野趣が誕生。ハサミでとりあえず真ん中から切って輪切りにして順番に食べていくことにいたが、なんと切り込みを入れた瞬間中に残っていた内蔵ライクなデロデロがどんどん出てきて二度ほど皿の中身をシンクにあけなければならなくなった。そしてそれがなくなった後もやはり外皮が分厚いらしく火が通りきっていなくて中が半生だったので、口に入れた瞬間脳の中で敷田直人が「卍ポーズ」(三振の意)を取り、無事吐き出した。生理は勝つ。しかし予想通り身体にヤバそうな味はしなかったからかもう一度口に含むと存外脳はごまかせるような気がした。だが分厚く切りすぎて味のないゴムのようなものを延々噛んでいるという苦行が発生している。

 先程も言ったが脳が「これ食ったらまずそうやな」と判断しているときの味のジャッジは厳しいので、美味いのかどうかというと「わからん」側に収まり続ける。そもそも味付けを怠り塩も振ってないせいで汁気のあるゴムのような味の印象は変わらないのだ。魚は塩振らなくても美味しいのにね…。いちど口の中を切り裂くような感覚がしてオアーーー!!と吐き出したのだが昼に食った納豆の醤油パックの切り取り部分だった(謎)。

 かなりショッキングなのが、割りとうまい具合に切り取れてはいても、もはやイカのあの円筒部分の輪切りの一片一片がイカ(全体)との関係を持ったリアルな物体として存在し始め、その度に生命を食っているという割りとプリミティブな経験を実地でやってしまったことだった。いやぁ、イカって本当に生きてたんですね、僕スーパーで売ってるあの刺身の状態で生まれてくるんだと思ってましたよ…と「いのちのたべかた」とか、「人類は衰退しました」の狩猟離れしたおなごのような経験を本当にしてしまった。

 それにしてもイカを買って食ったというだけで一時間でさっき3日かけて作り終えた三千字と同量を書いてしまった…みんなもやってみようよ、とドナルドのような口上で提案します。あとイカの美味しい調理方法も募集してます。

 あと僕ぐらいの世代ってやっぱ文章の切れ味と博覧強記だけで勝負したゼロ年代のブログサイトへの憧れが異常に強いよね。『翡翠の日記帳』とか『好き好き大好きっ』とか。部分で文字大きくするのも真似してみました。結構エミュ成功してない?