イカを焼いて食った

タイトル通り、これよりイカを食った話を始める。

ことは今日の夕方、昼から原稿のために喫茶店に詰めていて、心地よい虚脱感と共に帰りのスーパーに寄った折に、半額になっているイカ(全身)を発見して「あれ、これ食えるんじゃないか?」と考えた所から始まる。

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(写真はサンプルだが「アニサキスに注意!」と書いてあった)

断っておくが調理は好きでメバルやらイサキやら普段出回らない目新しい魚は大抵焼いて食っていた。その感覚でヤリイカも「焼いて調理するぐらいなら…」と合点し、不安になって聞いてみたものの、「かんたんにさばいて内蔵取り出して焼くだけで美味いヨ〜」と馬鹿でかい声で呼び込みをやってる店員のフィリピン人の言葉を信用して、浮かれ気分で小さな冒険に乗り出すことを決定した。



さて、帰って味噌汁やら他の品の調理を適当にこなしながら最後にイカを取り出す。よーしパパ頑張っちゃうぞ〜wとか適当なことを言いながらビニールを割いて胴の部分をぐっと触った。

 その瞬間、「あっ、違う」と呟いた(気がするが実際は絶叫した)。それより早く脳がいきなり最大出力で稼働して手指に指令、まるで熱いものに触ったかのようにイカを離して、イカは調理台から滑り落ちて床にぬちゃっと嫌な感じで落ちた。床の上に落ちたそれはあのデフォルメされた「スプラトゥーン」とか「イカ娘」のイカじゃなく、とんでもないリアリティーを持ってれっきとした生命としていきなりドカンと食卓に挙がってきた。生態学的に言うなら軟体動物門頭足綱十腕形上目(Decapodiformes

)です。

 今思いだすと手に持った瞬間、どこかぬめりを帯びてつるつるした触感を手に届けたがそれ以上に確かだったのが重量とディティールだった。内臓が詰まってて結構重い上に脚がまるで生きているようにゆらゆらと動いたので脳が「まだ生きてるじゃん!!」と判断したっぽかった。それよりそこで初めてイカは気持ち悪いという衝撃の事実に気がついてしまう。

キリスト教ユダヤ教では「鱗のない魚は食べてはいけない」とか教えてるそうだが、あれは割りと的を射ている気がする。イカはもうなんか世界観が違う。魚は形とか保ったまま調理場に乗るのだが、イカはどういう論理で動いてるのか外見から全く想像できない。大抵の人は脚を見るが、あれの恐ろしい所は頭の部分である。胴ぐらいだと思ってゆっくり昇っていった視線がふと白い外皮に浮かんだ2つの黒点を発見する。その眼が意外と大きくてその2つがこちらをぎょろんと見ていると感じた時の総毛立ち方はすごい。というかどこからが頭でどこからが胴だよ。あと頭の外皮が全部可食部分なのどういうロジックだよ、わからん…わからん…

この時点で絶対触りたくないし指つっこんで内蔵抜ける気なんてしなくなっていたが、ふとあの良質な蛋白質は火を通すとかなりしゃっきりした外側になるのを思い出して「しっかり火を通した後なら触れる…?」と機転を利かせて、とりあえずグリルにぶっこんで焼けてから内蔵処理に当ることにした。

だが、菜箸で摘もうとすると予想通り重くて何度も失敗する上にゲソの動く様が強烈なディティールを与えてきて、グリルに入れるときはもう泣きながら「こんなん食えるわけないゲソ」という気持ちだった。

 

閑話休題。本来、イカというのは刺し身とか下足とかそういう「食べ物化」した状態でお出しされているのであって、イカ(全体)に接する機会はそうない。あるとしても、それは内蔵やら目やらを抜かれた「串焼き」状態になって出てきているわけである。イカ(全体)は部分を包括する全体として生息しているわけだ。そしてイカ(全体)は途方もなくキモい

 

新しい食べ物に手をだす時に、自分の反応がどれほど生理学的に理にかなっているを冷静に見聞してみて欲しい。例えば白子はまったりとしてくさみもすくないとても濃厚な味わいだが、あの見かけと触感を人間が信頼して常食するには途方もない条件付けが必要になる。今までの知識から言ってもそれが美味しいものだと脳が判断していても、咀嚼したときに「カリッ…」とか「ブチュ…」とか見知らぬ触感がしたらすわ脳が「出せ出せ出せ出せ」と指令を出してきてうべっと吐き出してしまう。そんなわけで白子を楽しく食べられるようになるには結構な時間がかかった覚えがある。あと牡蠣なんてよく考えるとすごいキモい見かけし味もかなりトリッキーだよね。あんなん生で食うとか現代以外だと罰ゲーム感ある。

 

 ところで人間のキモい食べ物の認定は往々にして多分先祖がそれ食ってひどい目にあったみたいな条件付けによって成立しているというのが自論なのだが、その沿線でいくと「ぐにゃぐにゃしてる」「ぬめってる」「ヤバイ色してる」「臓器見えちゃってる」「触覚がある」「棘がある」辺りが特徴として上げられるだろう(文字に起こすだけでキモい)。これらを叶えるのがタコ、カエル、カタツムリなどいわゆる「ゲテモノ」である。そんなもんでも料理にしてしまうのがいじましい。その点、イカは確かにヤバイ色はしていないが、あの形で泳ぎ、可食部分と内臓が相当近いので、食べ始めてからも美味しい調理法が確立するまで相当な時間がかかったといえる。大体、よほど腹減って食うもんない限り、原始人だって魚食いたいでしょ…。

 

七分ぐらいしてイカが焼けたらしいチャイムが鳴り、グリルの中から出てきたのは焼き色がついてちょっと食べ物ライクになったイカ(全体)だった。これはいけそうだと思ったが、手に持とうとすると笑いが出るぐらい身体がビビってしまい、調理台に載せるというより箸で打ち上げるという感じになった。

 ナイフで側面をおそるおそるかっさばいてみると全然火が通ってないため、生っぽいデロデロがどんどん出てくる。多分外皮がすごく優秀でほとんど火を通さないんだろう、とかそんなことはどうでもよく、キモすぎてなんかシンクに落とすだけ落としてキッチンペーパーで拭うぐらいが限界だった。手で拭う?オイオイ、直接触れる気がしないが?。あと頭からバリボリ食えるぜ!となんとなく思っていたのだが、なんと頭部には軟骨があって絶妙に火が通らない上に眼を摘出するという悪夢のような作業の存在に気がついてしまった。魚の眼にはDHAという脳に良いらしい成分が沢山入っていていつもちゅるちゅる吸っているのだが、このイカのぎょろっとした眼でそんなことやったら永遠に癒やされないかさぶたをボリボリとかきむしるインスマウス顔になりそうだった。

 というわけでなんとなく黒っぽい(墨?)を取り出して紙皿の上においたそれの横にマヨネーズを載せると料理とはとても呼べない未開民族めいた野趣が誕生。ハサミでとりあえず真ん中から切って輪切りにして順番に食べていくことにいたが、なんと切り込みを入れた瞬間中に残っていた内蔵ライクなデロデロがどんどん出てきて二度ほど皿の中身をシンクにあけなければならなくなった。そしてそれがなくなった後もやはり外皮が分厚いらしく火が通りきっていなくて中が半生だったので、口に入れた瞬間脳の中で敷田直人が「卍ポーズ」(三振の意)を取り、無事吐き出した。生理は勝つ。しかし予想通り身体にヤバそうな味はしなかったからかもう一度口に含むと存外脳はごまかせるような気がした。だが分厚く切りすぎて味のないゴムのようなものを延々噛んでいるという苦行が発生している。

 先程も言ったが脳が「これ食ったらまずそうやな」と判断しているときの味のジャッジは厳しいので、美味いのかどうかというと「わからん」側に収まり続ける。そもそも味付けを怠り塩も振ってないせいで汁気のあるゴムのような味の印象は変わらないのだ。魚は塩振らなくても美味しいのにね…。いちど口の中を切り裂くような感覚がしてオアーーー!!と吐き出したのだが昼に食った納豆の醤油パックの切り取り部分だった(謎)。

 かなりショッキングなのが、割りとうまい具合に切り取れてはいても、もはやイカのあの円筒部分の輪切りの一片一片がイカ(全体)との関係を持ったリアルな物体として存在し始め、その度に生命を食っているという割りとプリミティブな経験を実地でやってしまったことだった。いやぁ、イカって本当に生きてたんですね、僕スーパーで売ってるあの刺身の状態で生まれてくるんだと思ってましたよ…と「いのちのたべかた」とか、「人類は衰退しました」の狩猟離れしたおなごのような経験を本当にしてしまった。

 それにしてもイカを買って食ったというだけで一時間でさっき3日かけて作り終えた三千字と同量を書いてしまった…みんなもやってみようよ、とドナルドのような口上で提案します。あとイカの美味しい調理方法も募集してます。

 あと僕ぐらいの世代ってやっぱ文章の切れ味と博覧強記だけで勝負したゼロ年代のブログサイトへの憧れが異常に強いよね。『翡翠の日記帳』とか『好き好き大好きっ』とか。部分で文字大きくするのも真似してみました。結構エミュ成功してない?

『1.5次創作』の時代 ナオトインティライミサイコパス説・ヒカキン嘘字幕・画像文字コラブームに添えて

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インターネットで興る一過性の流行り(英語圏でいうMEME(ミーム})は、たいていそれに興味がない人間にとってはよくわからない。

しかし面白いと感じる事実自体が多くの人間に共有されている以上、そこには何か人の心を集める不思議な魅力があることは間違いないんで、流行ったりしたら、まずその流れに乗る前に「結局何が面白いんだこれ」と考えている。

そういうことを続けてるうちに、ここ最近twitterで流行っている文脈として「ナオトインティライミサイコパス説」「ヒカキン嘘字幕」「画像文字コラ」があるが、この3つには共通の傾向があることがなんとなく流れで判明したので、それを少しまとめてみたいと思う。

ツイッターやってないとどれも知らないとおもうので、順に解説したい。

 

①ナオトインティライミサイコパス

 

 

当然ナオトインティライミはこんなことを言ってない。下世話な解説をすればナオトインティライミの顔がサイコパスっぽいという話題がなんとなく共有され、ナオトインティライミの画像にサイコパスっぽいキャプションをつける遊びが爆発的に流行った。「名誉毀損かも知れない…?」という意見もあるだろうが、しかし、インティライミという名前にはケチュア語で『太陽の祭り』という意味が込められている。次。

 

②ヒカキン嘘字幕

 

こちらもヒカキンはそんなことは言ってない。これはyoutubeの字幕自動生成システムを使うのだが、音声を認識して作られた字幕はまだまだ精度が低くアトランダムで自動翻訳な感じになる。それを使って『偶然の俳句』のように出会いを楽しむ流れだ。新しい動画が上がると、謎の有志がすぐに嘘字幕を消して公式の動画字幕を作るらしいので、鮮度が命のコンテンツだと言える。それよりこういう画像を作るためにヒカキンの動画を何十本も精査している人がいるらしい。お疲れ様。

  ところでヒカキンは知られていないが聖人らしいし、ナオトインティライミも多分サイコパスだけどいい人なので、それぞれキャプションでその人格を改変することに面白さがある。悪いヤツに悪そうな字幕つけても面白くない。この点ではヒカキンもナオトインティライミもむしろ評価が上がっているように思えるのだが、世相はそうは動かないだろう。最後。

 

③画像文字コラ

画像文字コラはもともとふたばのいもげとかで作られてきた文字コラとか、同人CG集とかの派出なのだが、人口に膾炙し始めたのは最近。(文字コラの画像は本当にいかがわしいので垢バンされてしまう)

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こういう画像が普通の画像に付されるとちょっと含みをもった淫猥な感じになるというので、いろいろな画像に適用されている。バリエーションは豊富だし、必ずしもエロだけに適用されるわけではない。こういう素材が示すイメージが用意されているということで、本来ありえない状況にも適用される遊びも出てくるものだ。

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さて、この3つ全てに共通する特徴がある。

それはこの3つがコンテンツ自体が画像の中にあって、そこからほとんど離れないまま、文字情報だけをいじって内容の性質を変えようとする試みであるということだ。

これはpixivではしばしばキャプション芸タグ芸と呼ばれる行為だが、これらはオリジナルに対してどういう立ち位置を取っているかというと、1.5次創作とでも言うべき場所にある。2次創作は一般に設定やキャラクターを借りてオリジナルのストーリーとか自分の筆致で翻案するわけだが、1.5次創作はタイトルやら文字情報を入れ替えて展示し直している。コンテンツの領域としては、画像そのものより文字情報に当る。

ここからはもっと広範に1.5次創作の適用範囲を拡大していきたいが、最近のよくわからん笑いに関連したネットコンテンツの多くは、この1.5次創作が関与していることを強調したい。

例えば画像に覿面な唱題をあてて受けを狙う「bokete」も、同じようにキャプション芸および1.5次創作の仕事だ。

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ニコニコ動画にはもともと長い期間、嘘字幕シリーズというのがあった。外国語に会わせて動画製作者が言いたいことを言うという趣旨だ。当然言語の意味が見えてきてしまうと破綻するのでヒトラーエミネムハートマン軍曹フルメタル・ジャケットの鬼軍曹)などのネイティブですら聴きとりにくいしゃべりの映像がしばしば徴用される。これも1.5次創作的な試みだが、まぁ動画製作者本人がやってるし微妙。

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一方で視聴者がコメントでもともとある動画に視覚的な効果を作るコメント芸という試みがあったけど、これは文字のキャラクターを利用したアスキーアート的文脈で、あくまで視覚的なオーバーレイの試みだ。

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どちらかというと淫夢動画以後に、ひとつの映像に関連する別の事例や他のイメージを"red big shita"で次々と列挙していく、いわゆる「赤字芸」が1.5次創作に位置している。ここでは動画の情報を多元化および撹乱することすら目的にしていて、ある種文字情報の乱雑さとカオス自体が欲望されている事が多い。どうでもいい画面にわけがわからなくなるほど埋め尽くして、とにかく雑な感想が押し寄せている感じが意味の分からない笑いを誘う。

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この例、つまりキャプション芸が歴史的に出てきたのは、まぁ芸術におけるポストモダンパラダイムの後だろう。まぁ全員が思いつくだろうけどマグリットの『イメージの裏切り』だろうな。「これはパイプではない」とパイプの絵に書かれてる。まぁ作者本人がやってるわけだが、これは1.5次元の試みだと言える。そもそも『泉』もまぁ泉じゃなくてこれ便器だろって点では符号するが。(それより教科書レベルの事例しか上げられずクソ恥ずかしいので死んでいいか?}

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この沿線から上のツイッターの最近の試みを会わせて、この1.5次元的遊びにもある程度の俯瞰を与えることはできる気がする。

①画像情報が先にあり、文字でその題名をいじることに興みがある

②追加される文字は画像を撹乱したり、意味を移し替えたりする

③文字情報が乱雑になりすぎると画像は無意味なものになる

人は多分絵から情報を読み取ることが好きなのだと思うが、多分同じくらい文字を読むのが好きなのだ。この遊びは画像がコミュニケーションの基体(まさにお題)として使われ始めたあとの想像力だと思うけど、この運動が盛んなほどそれを有するコミュニティーも栄える。逆にやはり鮮度が命で、定形文として使いこなされるとすぐに萎え始める。

 

 それに1.5次創作な遊びはインターネット特有のものだし、それこそ評価項目が存在しないので大抵の功績は詠み人知らずのスタンドプレーに留まる。しかしある画像がはっきりその意味が移し替えられたと感じる場面では自然にその情報の投稿者に賞賛が集まるものだ。一時期ニコニコには「ニコる」という機能があって、このような1.5次創作の卓越したコメント製作者には無数のニコるが与えられた(結局とんでもない負荷がかかったらしくすぐ終ったが)。

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 しかし、1.5次創作に携わっているこういう陰の職人の仕事がときに大きなブームを作ったりするので、今後もこのような想像力を拡張するようなコンテンツの誕生に期待したい。というのは半分ウソで、どうせ面白いから、今後も各々が好き勝手にやっていくんだろう。

 

 

部活ものアニメの系譜 けいおん・ユーフォニアム・バンドリ

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バンドリ三話見てて、いわゆる「けいおん!」以後の演奏部活ものの系譜がまた更新されてしまったなと強く感じた。(この記事は雑で導入とかを端折ってます。できれば「けいおん!」「響け!ユーフォニアム」「BanG Dream!」の視聴を推奨します。)

bang-dream.com

 

もう全員忘れてるだろうが、けいおん!というアニメが2011年?にあった。特筆すべきその「部活系アニメ」としての特徴は、

 

①恋愛禁止(男は全員死んだ)

②事件が起こらない(少なくとも彼女たちのアイデンティティを貫通するような事件は)

③成長的描写を挟まない(ジュブナイルを経ないので)

 

という所だ。当然物語にあるべき姿などないので、この特徴にも良し悪しはない。ただそれ以後作られた作品に、以上のような特徴がある程度審級に付される。GJ部ゆゆ式、人生、みんないい奴らだった…。

 

ところがけいおん!のあと、京都アニメーションが「響け!ユーフォニアム」というアニメをやるから話がややこしくなる。「響け!」は吹奏楽部の話だが、ガチもガチ。お遊びなし休み無し競争と裏切りの社会が一話から始まる。この特徴はけいおん!と完全に相反する。つまり

 

①男女恋愛あり(ただし女性相手も匂わせる)

②事件は起こる(しかも主体的に動かなければならない)

③成長する(演奏の技術、及び社会性)

 

要するに全然楽ではない。

 

この対比は簡単に言えば視聴の社会へのリアリティという点での対比を見せている。

 

つまり君は部活はガチ派?それとも楽しければいい派だったか?

 

けいおん!は部活をユートピア化し、非常に少ない人員でできるだけ事件を回避するように進む、事件が起きるとソーシャル=関係が変動するからだ。当然部活の内容は問題ではなく部活というゆるいつながりの形式が重要であり、特別に達成目標を定めることはない。ただしその次善策としてメンバーの仲から離反者が出ないように恋愛禁止、退部禁止と暗に網を強いている(禁止自体は見えにくい)。この点一見透明性が高いようで息苦しい世界だ。だからこそ目標がなく、他者との強い接触を避けているという問題を回避するための建前が正常に機能する。

 

ユーフォニアム吹奏楽部の部活は逆に初めから大会出場という目標を達成する自体を目的としている厳しい集団だ。目標がある以上部室というソーシャルは非常に強い規律意識と目的で排他的になるが、だからこそ辞めやすく、入って順応してしまえば居心地がいい。ただし主人公自身から「うまくなりたい」という動機を引き出させたのはなんと11話で、まず強い協調性の軛があってそれに対して個人が従うかどうかは実は問題ではなく、崇高な全体の目標に個人がキャッチアップするにかは時間差がある。やはり非常に息苦しい世界だが、逆に言えばそこには何か報酬が待っているような気がする。やりがい搾取のブラック企業、と言ってしまうのは酷か?

 

この点問題になるのは、部室という場所の捉え方だ。部室でだけは他人とぶつからない私的な(日本的な)内部にしたいというのがけいおん!、むしろ部室をこそ公的な(欧米的な)外部にしたいというのがユーフォニアムだった。けいおん!の部室では極めて個々人の希望や欲求が優先され居心地の良さを最適化しているし、演奏も厳しくは見られない。対してユーフォニアムの部室は厳しい空間だ(部室では油断も冗談もない)し、演奏にも厳しい評価の目が入る。

 

 ここでバンドリが現れる。バンドリも部活ものアニメだが、これは上記の問題に改めて一筆を投じることで、部活ものアニメの系譜を更新することになった。

 

 このバンドリ、とにかく主人公がすごい。主人公はとにかく学園生活をエンジョイしたいという欲望のもと、色々な部活を試した果てに、とあるギターと運命的な出会いを果たしてバンドを始めようと考え始める。彼女にとって(けいおん!平沢唯とは異なり)バンドとギターはそれでなければならないものである。だがバンドを始めることより先に、彼女は「何かしたい」という漠然とした衝動のほうが第一次のようである。

 

そして三話でまだギターもひけないままライブ会場に飛び出すというおそろしいシーンに突入する。主人公の女の子はまだバンドファンの立場でバンドすら結成していないが、知り合いのバンドが飛行機の不備で遅れ、間が持たなくなるとわかると、突然友人を引きつれてバックステージから飛び出し、友人にはカスタネットを叩かせながら(カスタネットは「けいおん!」一話で主人公の平沢唯が唯一引けた楽器として思い出深い)「きらきらぼし」を歌い始める。おそらく六分程度。最後にはもうひとり友人がかけつけて簡単なベース音をつけてくれるが、それでもその幼さを露骨にあらわにする演奏をして場を持たせるためだけに延々と続ける。

 

 この場面を見れば誰もがゾッとして、誰もが再生を止めたくなるはずだ。だがこれは実は先に上げた2つの作品が持っている問題を止揚した形になる。思い出そう、けいおん!世界では私的な場所から出られず、大きな達成感を得ることができない。しかし逆に「ユーフォニアム」の世界では達成感の代わりに、安全な場所と肯定を確保することが難しい。

 

 ならば2つの同質の解答が考えられる、部室という空間について、「私的な場所」を公的にするか、「公的な場所」を私的にするか、だ。要するに、

①自己達成すべき厳しい場所を甘々にしてしまうか、

②甘々な場所で自己達成してしまうのか。

 

 前者は個人の内的な感性を通して(つまり思い込み)、後者は環境によって(つまりお情け)達成されるだろう。だがこの場合、バンドリは両者を通して達成したことになる。本来、ライブ会場というのは散々練習した主人公たちを試す試練の場だ。それをよりにもよって最初にやって、しかも未塾なまま続ける。それに対してなんだかよくわからんがやりきった感に観衆も拍手を送って大団円になる。相当気持ち悪い場面だが、これ我々が望んでいた空間によく似ているような気がする。そうだ、これyoutubeだ。

 

 youtubeおよびニコ生とは視聴者一体型コンテンツであり、視聴者との近さが非常に両者の間に横断的なコンテンツを形成する。あまりにも孤高だったりうますぎる芸を提供されても賛意を表明しづらいし自分がいいねを押しても彼には無数のうちの一つでしかないだろうと肩を落とすはずだ。むしろ逆に、少し下手でも頑張ってる感が伝わってくる健気なもののほうが「推し甲斐」があるのがわかるはずだが、これは明らかに成長途中のコンテンツであるのがわかるほうが、賞賛することでその貴重な一票がコンテンツを育てていく感覚があるからである。つまり今、コンテンツを作る時「拙さ」「未完成さ」を強調することははからずも手落ちではない。確信犯的に機能させている地下アイドル達の状態を見れば明らかだ。

 

 というわけで、実は「バンドリ」ってバンドというよりは「地下アイドル」アニメなのだ。そもそも高校生バンドの演奏にお金を払うなんて、自分が育てていく感覚を共有するため以外にない(だから彼女たちはちゃんとライブハウスにサイリウムを持ってきている)。なんとも陳腐だがリアルな、演者と視聴者の境目の蕩尽。つまり、私的で公的なものという「第四の壁」を超えた夢のような空間が「けいおん!」が放送されてたった五年の間に達成されてしまい、その欲望に答えるようなコンテンツが現れてきて、部活の性質にまた変化が訪れたというわけだ。ハイブリッド型とでもいうべきこのSNS的な空間は、多分今の視聴者にとってもかなりリアルなものなのではないだろうか。

 

 一応指摘しておかなければならないが、 このyoutube的空間はもうかなりアニメの表現でも出現して浸透している。例えば「アイドルマスター」ではライブ場面に観客の顔やリアクションが出ることはそうなかったが、「アイドルマスター シンデレラガールズ」では、後半島村卯月がミスりまくる演奏に対して観客がフォローを入れるという場面がある(ちなみにこちらもシリーズ監修はバンドリと同じ綾奈ゆにこ)。綾奈ゆにこはキンプリの応援上映なども評価していたが、このyoutube的な相互補完コンテンツの能力をかなり高く評価しているのだろう。この演出はいわばそれを過剰にさせた結果だった(成功したかどうかは別にしても)。

 

 ただし視聴者に対しても未熟で未完成なコンテンツの穴を見せつけることでその応援したい気持ちを買うようなやり方は、からくりが割れているだけに正直やられすぎると鼻につく(もちろん嫌いではないが)。大体バンドリのメディアミックスで、声優に楽器渡してバンドやらせているが、もちろん上記の構造の完全な複流だ。だが、付け焼き刃でライブさせて、果たして出来上がったものを提供されるのか怪しい。ファンは応援すると決めたものならもうそういう所も愛しいんだろう、「あばたもえくぼ」という奴だ。しかしこれについては、そういう自堕落な構造を露呈させて冷水をあてたいというより、それを了承した上でなお何に乗るべきかを見定めるべきだと言いたい。

 

 

フリースタイルダンジョン雑感 

  ランニングマシンでふんふんやってたらFSD(フリースタイルダンジョン)やっていたわけで、最近ヒップホップの歴史とか最近のヒップホップも履修した俺は(界隈がやたらその方向に向かっている)、そろそろわかるんじゃねーの?という淡い期待をいだきながら視聴した。まぁ相も変わらず、という印象もあったが。そこで何が起こっているのかは少し輪郭がつかめてきた。というより、何が自分にとって不服なのか(それは良い悪いではない)、FSDにとって何が重要なのかが分かってきたような気がする。というわけでそれについてささっと触れたい。

 

 

 

 自分にとってFSDがどうしても好きになれなかった部分は、①その場で起きていることから極端に外れた内容を言うと場の評価が絶対に落ちること、②そして韻を踏むこと自体の素朴な気持ちよさがしばしば相手の直情的なDISに「場負け」してしまうこと。つまり③「簡潔な悪口」が「高潔な詩文」に勝つという、ね。こういう場面に出会ってしまうと陰キャラは大体反感覚えるんですよね〜。陰キャラは自分の「素朴な知性」みたいなのがいつかクラスのDQNを倒すと信じてるからな。

 

しかし世の中にしばしば場のモードというのが存在する。前述の問題だが、これが例えば和歌の読み合いとかなら、恒常的な美とかについて歌ったほうが絶対評価は高くなると思うが、FSDの方は判定がその場に居合わせた人たちの一体感に任されている。

 

 その場に居合わせるということにおいてすごく大事なのは、次に何を言うのか、この言葉に対して相手はどう返すのか、という緊張感を共有できないこと(そしてその習得に時間がかかること)だと思う。しかしこの分離を用意してしまっているのが字幕だ。字幕を見ると、返し始めた瞬間に話す内容がもう全て出てきてしまっている。それでは言葉が生成する場には立ち会えないし、言葉を口語ではなく文字としてみてしまう。まずこれが一つ目で、字幕をやめろ。

 

 そしてこの点で字幕で見ると良さそうな文章なのに、ということが頻発する。だが大体実際に立ち会うとそんなに響かないということはなんとなく想像がつく。長いけどかっこいい文章というのは文字にすると凄みはあるけど、しばしば口にすると鬱陶しくて大仰だし、相手に対する応答に応えてないことも多い。家で考えてきた構築的な長文の韻文は、まぁ噛まずに言えてよかったね、ぐらいの評価に落ち着くのも仕方がないが、これは座学としての弁論術がだいたい文章の精錬に頼りすぎてるからだと思う。実際の話は違う。

 

実際の良い話し手というのは大体要典を絞って簡潔に話しつつ、しかも場の空気を鑑みて内容の仔細を変えてる。例えば講義の前に与太話をせずいきなり先週の続きからギリシャの詩劇の部分を教科書を読むように解説する老人は、自分が「真実を伝えている」という安心感にあぐらをかいている結果、多くの無関心と快眠を誘うことになるが、反対に我々に響くのは大体、与太話六割ぐらいで簡潔な要点だけを伝えるような人物で、結局その人の言動や考え方に後々影響されることが多い。それは聴衆に対する慮りがなせる技だろう。要するに話し手のことを考えたら、本でしか機能しない難しい言葉は控えるものだ。

 

 その場が求めてるステレオタイプとか相手の持っている雰囲気や小さな齟齬をうまく切り取って言葉にすると観客は湧くが、この作業は用意が効かない上、利発さとひらめき、繰り返しの修練が必要なものだと思う。結局その替えの効かない観察眼の技術が、常套句のパッチワークに対して優越するのは、まぁ仕方がない。「悪口が詩文に勝つ」というよりは、単純に、観客を見ている人が観客を見てない人に勝つ、という構図なのだ。

 

ただし、視聴者は悪口を期待しながらエスプリ自体の博覧もしばしば見たがっている。それは間違いない。その技術は、この二つの性質の両方を兼ね備えたものでなければならない。つまりその場の人間に応答しながら、その場と関係ないものを引き寄せて融合させる技術、全員が本当にフリースタイルラップに期待しているのは実はそこなんだろ、難度が高すぎるわけだが。

 

 だがここが悲しい所だが、そのすげぇ一文が回ってくる回まで待たないといけないのだろう。人がその場でジャムって作ってるんだから仕方ない。TV版マクロス美樹本晴彦や板野回を待っている間の作画がクソな回を延々繰り越した先の至高の作画の一回みたいなもんだ。俺だって至高の一回が見たいがそんなの待ってるには根気がいる。そして俺は「まぁこんな回もあるよね」という根気が出ないので、誰かベストアクトだけ集めたオムニバス作ってくれ。買うから。 

 

おわり。

 

最近のツイート。

 

 

おわり。

 

空間についてつらつら

 師走ですが、僕は全然忙しくないです(ノージョブでフィニッシュです)(今年一つお仕事もらったので、来年は二つにしたいね)

 

 カメラワーク論が少し長じて、今回はゲームと映画においてちょっと思う所を。

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 小津の『東京物語』はまぁ非常に有名だし何回も論議されてるから今から触れるのもどうなんだ問題あるけど、この平山医院のカメラワークはなんど見ても新鮮さがある。それは我々がひそかに持っているカメラにこう動いて欲しいという生理に全て背いているからだ。

 複雑で入れ子状になっている日本の平屋において空間は格子(グリッド)状に配置されており、一人の人間をカメラが迎え入れるときですらその動きを動的に捉えることはなく、動き自体が空間によってぶつ切りにされる。建物の中での人員の動きがその能動性によって捉えられることはなく、他の人員との出会いは全て「唐突」に演出される。

 これはそのまま日本の「サザエさん」的複数世帯の混成を表象していて、常に画面の横から唐突に現れる新規の人員は別々のコミューン(夫婦同士の親密な間柄から、家族としての形式的な間柄へ)複数の生活空間の中で横断的で不確定に定まっていることを表している。(例えば子どもたちは大人が歓談する場所に境域的な女性を介さなければ入っていけない。これは現代の感覚からすると少しいびつに見えるだろうが。)

 

 そんで俺は初代しかやったことないけどバイオハザードにおけるゾンビの登場と小津映画『東京物語』の関係性。

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 初代バイオハザード(4以降は完全にカメラ追随型だが)では、西洋の洋間を舞台にしながら、狭い道路を主体にカメラが移動していく。広い空間にあってもカメラは非常に狭い空間として寸断し、常に画面の中で見えない部分が存在する。これが意図する所は明白で、常に見えない所からゾンビが現れる恐怖をプレイヤーは一定量担保することになる。ただし小津のカメラよりは親切で、いわゆるイマジナリーラインみたいなのを超えることはない。

 問題はそれがゾンビ自体の早さより先にその呻きによって代替されることで、常にゾンビの身体は遅れてやってくるという点にある。ゾンビは次のカメラの角度からすればまるごと収まっているかもしれないが、それは今の自分のカメラからは見えないしわからない。ここがカメラの不親切とでも言うべきポイントで、出現はつねに奇妙なうめき声によって先行される。(音が現前に先行するというJオング的状況とか書きたかったけど読んでないのでコンプラ)

  

 

 更にこれを再び「東京物語」に照射すると、平山医院は楽しい歓談の場というよりは、ホーンテッドハウスというべきが正しいのではないだろうか、という試論。つまり複数の境域的な身体が一つのカメラの中に収まらず別の場所に存在していくことをカメラの限定性によって常に印象づけられることで、カメラには一人しか映っていなくても(あるいは誰も映っていなくても)、どこかにいるだろう別の存在の刻印が常に映像の中でこだまとして響きわたり、幻視されることになる(『お父さん、お風呂!』『お母さん、何の話?』の掛声)。よく歳取った主人公が昔来た場所を見渡したら、子供の頃の自分が横を走り抜けていくみたいな演出あるじゃん。あんな奴に近いイメージ。おーい、これだけだと絶対誰かもう言ってそうやな。

実はオカルティックナインとかアニメの話にしたかったんですけど、今日は左様な感じで。

 

おわり。

 

 

 

 

 

 

2016年声優の演技ベストアクト選 

ウ ン チ ー コ ン グ っ て し っ て る ?

 

僕は知りません。

 

今年も佳境なのでそろそろ色々総括しなきゃいけないし、今日はとりあえず今年良かった声優の演技を貼っていきます。

軽く声優を論じるときの大枠の観点について話します。

 

コンスタントに良い演技する声優というのは実はいません。大体人気声優というのはアニメ出まくってるんで、演技なんか一から作る人はそういないんですよ(悠木碧みたいな怪物もいるが)。だからかなりレディートゥーメイドな型でガンガン推してくるタイプの声優が逆説的に人気声優化するパティーンが多いんですが、これはキャラと合ってたり合わなかったりというのがブレが大きいです。これ声質に依る所も大きいんですが例えば能登麻美子はあの声質上おっとりしたキャラなら「能登麻美子」として発揮できますがそれは「能登麻美子」的なるものの延長としてキャラが布石されてしまうので演技としては評価し難い部分が出てきてしまう。

 

そうなると声優の演技が見たい場合の理想は一回しか出演してないのにすごいキャラにあった演技をする新人ですが、これは逆にキャラクターのイメージからその声優を引き剥がす必要が出てきてしまうし、あとひとつかふたつ別の役を見てみたいもんですよね。こういう人気声優ってわけじゃないけど、いい演技するのになァ〜みたいな人は推し甲斐があります。その後の演技の伸びしろに期待できるし。逆に他の演技はつまらないのにこの演技だけ面白いということもあるけど。

 

上手いな〜と思うタイミングというのは色々あると思うんですが、基本はシャウトと泣きの演技に寄りがちですね。そこでわかりやすくキャラに感情がノッてるかが出て来るし。でも細かい抑揚とか緩急の出た小さな場面であっ上手いわこいつとなることもあります。(この例でいうと『ユーフォ』の黒沢ともよは別格でしたね。)どこで気づいたかはまぁ感性に依るわ。好みから言うと「やさぐれ」とか「たくらんでる顔」の演技とかは一般的なアニメキャラビルドから出しにくいんで、見どころですね。

 

あとアニメの方向性として声優の演技がブーストできる作品かどうかも割りと問題です。これはアニメ(音響監督)が典型的なキャラ像を各キャラに与えるかどうかで趨勢が決まる気がします。個人的に選んだ作品も岩浪美和のがバリ多い印象。

 

あと当然の指摘として「声優を意識させるような演技は好悪どちらでも本質的なものでない」というのは在り得る気がします。キッズアニメなんかはキャラとの一体感が凄いし、スパン長いんで短期的には演技のハイライトも無いから声優を意識することはあんまりないですしね。でもそうだとしても声優を面白がれる機会があるなら得じゃんね。

 

そういうわけでキャラレベルで何人かいい演技してた人を紹介します。

 

雨宮天(「この素晴らしき世界に祝福を」!のアクア)

雨宮天って自分の可愛さを分かってるから(要参照)かなりキャラ崩壊気味の馬鹿キャラやったほうがブンブン振り回せる印象ありますよね。例えば「モン娘」のラミアとか。そんでこれはお馬鹿でドジだけど割りと悪知恵も利くというキャラ。これは雨宮天がこのために作ったというよりは、もともと持ってた演技の作り方にうまく乗った感じか。ところで#雨宮天に騙されるなってハッシュタグには笑った。

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大空直美(「装神少女まとい」の草薙ゆま)

いやぁ、この声でこのキャラは反則かよと思った。新井里美文脈に「ちょっとだみ声入ったロリはババァかわいい」という黄金率がありますけど、ちょっとファニーなだみ声で、元気なキャラに無類のアホの子っぽさを加味してました。脚本上の感情の起伏に寄せたありがちな演技はちょっと拙いけど、悪巧みしてる時とかの細かい演技が気持ちいいです。まぁ俺がこの手のキャラ好きなだけか。ハマりすぎてこの人次あるの?と心配になるタイプですが。(「ガルパン」の由香里さん的なハマり方)

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M・A・O(「宇宙パトロールルル子」のルル子)

この人、大体巧すぎですよね。初見が「がっこうぐらし!」だったのでなるほど声質的にはお姉さん枠かぁ〜と思ってたらどんどんキャラ観更新してきて、今は「フリップフラッパーズ」でもガンガン回してますが、抑揚が独特で何演じても憑依しながら自分のフィールドに惹きつけられる、万能型のキャラ志向というか。このキャラは独白が多く、自己消沈的でナイーブなのに自分の状態に対してシニカルという微妙な年頃の女の子を上手く演じてきました。ハイライトは二話の後半。M・A・Oって名前、最初みたときには源氏名だと思うよね?(実際に俳優業の源氏名だと知ったら納得したけど)つかMAKOどこ行った?

 

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小野友樹(「ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない」の東方仗助

小野大輔空条承太郎も板につくまでにだいぶ時間かかった気がしますが、この人一話から全開に空条仗助そのものでビックリしました。イメージから全然外れてないし、キャラの特徴であるヤンキーというより任侠映画風の節回し、「見得」を抑えてる、多分すごい準備したんじゃないかな。小野大輔の承太郎は普段の演技がテンション合せづらそうで生硬いんですが、こっちはおバカ回でもかなり柔軟でした。あと億泰はもう完全に放送前から高木枠よ。お前は絶対何の準備もしてないのに合い過ぎかよ、あれか、いきなりガンダムX操縦できたガロードみたいな感じなのか。

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 小林裕介「Re,ゼロから始める異世界生活」のナツキスバル)

小林裕介、これ以前にも演技してたし何本か見てるんですけど全然意識してませんでしたが、こんだけアクの強いキャラを完全に最後は自分のものとして消化してましたね。批評っぽいことを言うとまさにナツキスバルが詰め込みすぎの「演じ過ぎ」なキャラクター性から無力感を経由して個性を残していくというビルドゥングスロマンキャラなので、それを追う声優の演技のダイナミズムとしても申し分なく面白くなるはずなんですよ。でもこの場合、一番美味しかったのはやっぱり中盤のかなりイカれてる時のイカれ演技でした。松岡くんのベテルギウスロマネコンティとのキチガイ合戦よ。つかベテルギウスは分身可能設定なのに、怪演すぎて誰もついてこれないし他の声優が演じたベテルギウスが松岡くんの劣化コピーになってしまったという。すげぇ

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岩永洋昭(「ベルセルク」のガッツ)

これ、「岩永洋昭」役のベルセルクのガッツって書いてもいいんじゃねぇのかってレベルだった。映画版からの続投だからこれも今年じゃないんですが、とにかくかすれて厭世気味の低い声が一般的なアニメの男性声と発声が違うし、ガッツという男の異質さにハマりすぎ(まぁ本業俳優だからな)。うわ〜この演技難しそうみたいな所も問題なくアニメっぽくやれるのに何度かびっくりした。今や在りがちな人気男性声優が演じてたらと思うとゾッとするぐらい。一回鬼武者で声あてた金城武は「某演技」呼ばわりされたけど、こっちはエッジがバリ立ちだからめっちゃアニメっぽい。というか任侠映画的な見得ってやっぱりアニメっぽいんだよな。

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黒沢ともよ(「響け!ユーフォニアム」の黄前久美子)

まぁ諸所で話題になってるけど、今年のベストアクトの一つですよね(実際は今年じゃないけど)。なんというか、黄前久美子には実はもっと在りがちな声優がついても機能するだろうけど、これにつけた黒沢ともよの演技が今まで聞いたことない感じなんですよ。黄前久美子はすごくシニカルな人柄なんだけど、そのシニカルさがだら〜んとした緩みみたいな感じで表出する(例えば第一話前半で見せたいくつかの気の抜けた場面)ときのほうが黄前久美子(黒沢ともよ)が気を張っているときの「イカニモ演技」より生っぽい感情の起伏が出てきてリアルな感情の稜線を感じます。こんなすごい演技するのに黒沢ともよはこれ以外の役は典型的なアニメ声のキャラで割りとつまらないのがますます面白いが。

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悠木碧(「僕だけがいない街」の雛月加代、及び「ステラのまほう」の藤川歌夜)

この人は前に「禁呪詠唱」の役がすごくて記事書いたことあるんですが、ブレイクがかなり前なだけにイメージはもう定着したと思ったらそれをぶっ壊更新していくプログレッシブな人です。さっき「声優を意識させる演技は〜」みたいなこと書きましたが、上の二つの役、あんまり上手いんでクレジットで名前を見たらそこで悠木碧だとわかってびっくらこいたんですよ。なんでって、こんなに有名な声優が何度も驚かれるなんてかなり異常なことです。何クールも跨いで同じ人の声聞いてりゃ他の作品に出ても一話で嫌でもダメ絶対音感が作動してくるもんなのに、それをかいくぐって、初めて聞いたように見せかけてくるんですから。

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 正直に言って声質自体は狭くて弱い。張るとかなりダミるので、シンフォギアのビッキーとかちょっと苦しそうなぐらいだし。昔演じたGOSICKヴィクトリカも原作じゃ「老婆のような」声って形容ですから、むしろ悠木碧「っぽい」キャラが特別魅力がないと思う。ところが本人もそれを了承してるのか、強いて戻ってくる場所がないので、キャラ志向で演技を作ってくる技量が他より高い。本人も頭いいんだろうなぁという演技の作り方だし、wikiの一覧みてるだけでいい演技ばっかだなぁ〜とニヨニヨしてくる。今後も期待できる人ですね。

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因みに今年も僕が苦手とする声優は柿原徹也浪川大輔川澄綾子辺りです。 理由は名前聞いてわかった人以外はまぁ気にすんな。

 

(DimensionWのミラちゃんの上田麗奈も入れるか迷ったけど、あの子ばくおん!見たら不安になってきた。大丈夫なのか>)

 

おわり。

あ、あと作品単位も。

 

オカルティック・ナイン

全員脚本上の要請でクソ早口で設定や考察を挟むから内容の密度もさることながら、それぞれの役の演技が出て来る。短い時間に感情の起伏とか抑揚が挟まられると、主要キャラのメンツは特にキャラを読み込んでるのが伝わってくる。

 

「亞人」

宮野真守は単体で上げてもいいかなぁと思ったけど、この作品は全員スペックが高くてよく選ばれているというか演技指導が相当入ったんだろうなという印象がある。予想だけど3Dアニメは音入れの段階でもかなりまとまった情報が手に入るからキャラを想像しやすい?大塚芳忠演じる「佐藤」も実は政治犯ではなくトリガーハッピーサイコパスだったというキャラクターの性質を最初の演技から明示せず、ゆっくり明らかにしていくし流石。あと細谷くんもいい演技してたけど、今年はこの一本に欠けた印象。

 

おそ松さん

これはキャラと設定上、完全に声優劇化してた…割りには全員切れ味のいい演技で有名声優の演技の博覧として面白かったんですよね。一つには全員固定の演技を持ってたから、それらの演技が均質な絵面のキャラにカラーパレット的にぱきっと分かれた性格の差異を与えてたからかな。特に誰がというわけではないが、櫻井孝宏が出ずっぱりの割りに暴れまくってた。つか櫻井孝宏はなんというか石田彰みたいな枠に移行しつつあるな。

昭和元禄落語心中

これも同上の理由で完全に声優の独壇場。そりゃ噺家やらせても声優業だからうまいわな。そりゃキャラもすげぇよな〜。

 

 

おわり

 

そのうち、今年のアニメ十話も選びます。

「人喰いの大鷲トリコ」と「watch_dogs2」の視点批評

あくまで簡潔に「人喰いの大鷲トリコ」と「watch_dogs2」の視野についての批評を。

 

 


PS4ゲーム「人喰いの大鷲トリコ」のカメラの悪いところは大きく上げて3つ。
・マチが大きすぎてすぐ反応しない。←これはすぐ改良されていい気がする。
・L1でトリコを見上げようとするとトリコしか見えなくなる。
・FOVが狭すぎて遠景がほとんど見えない。
・酔う ↑上記の原因により


しかしゲーム性を考えるとこれが一概には悪点とはいえないし、きちんと説明するべき良点でもあるからすこしだけ記す。

 

 


いわゆるFOV(field of view=視野角)の広さというのは「プレイしやすさ」という点で明らかに「大きければ大きいほどいい」という理論になりやすい。特に対人FPSだと死角の狭さが命取りになりかねないので、全員限界まで上げていくスタイルになるだろう。例えば今プレイしているPCの「watch_dogs2」は短い時間で多くの情報を収集する必要があるため、かなり開けたFOVになるし、特にオンラインのハッキング戦だとまず敵をみつけないといけんからカメラも感度最大で限界までぐんるぐる回しまくる。かなりプレイヤーよりのカメラ使いなわけだ。

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 極めつけは運転時で、このときは言うまでもなく多くの情報を収集しなくちゃいかんという関係上、視点が明らかに運転手の視点から乖離してプレイヤー側の都合のものになっている。トリコとwatch_dogs2のFOVが好対照をなすのは、ゲームの方向性としてwatch_dogs2が「超身体的」でメタキャラクター的な視座に立っているからだ。
 watch_dogs2は電子機器にハッキングをすることでプレイヤーから視点だけ乖離し、監視カメラやドローンを媒介して複数の場所を見ることが出来る。この時アバターはカメラを操作している関係にあるが彼等にとってそれが二次情報であり、同じくプレイヤーにとっての二次情報(間接的に見ている)と同格になるため、ここではプレイヤーは擬似的に「直接見ている」と誤認しなんか自分でみてるような迫真感=リアリティを感じたりする。

 Media preview

これが例えば3DCGアニメ「亞人」でも多用される表現でもあるがアニメというメディアの中でyoutube風の動画のフルスクリーンを見る時それがアニメ内の表現である前に擬似的に視聴者はその動画を直接見ているように錯覚するわけだが、ガワが3Dならではの表現手法だと思う。

 

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 拡張する視座あるいは超アバター的なワイアード空間とシームレスに意識が連続する主人公の意識に接続する我々はあるいはサイバーパンク的な超肉体的存在へとシフトしていると考えることもできるかもしれない(とかなんとか)

 


んでこの例と完全に対称性をなすのが人喰いの大鷲トリコの少年。


このゲームのカメラのFOVが極端に狭くて全体を視野に入れづらいのはゲーム性として用意された経験で、主人公の少年であり小さな視野しかもたないという性質を極端に反映して、そこにプレイヤーの経験幅も寄せている。要するに「子供の視点で見る」ゲーム。少年の視野角では全体を俯瞰することはできないので物を見つけたり出口を探したりするのも苦労する。そこで、例えばトリコの背中に乗って高い視点を得ることで初めて「俯瞰」できるというようなゲーム経験も用意できる。

 

あとL1を押すとトリコを収めるような画面に成ると多くの場合必然的に少年がフレームアウトするが、これは多分トリコを見つめるという運動がwatch_dogs2のカメラを通したイリュージョンのようにプレイヤーにとって直接的な経験になるような仕組みを意図しているんだと思う。要するにトリコを見る時にはプレイヤーにとってトリコを直接見るような状態にしたかったんだよ(※多分)。

 

<同日午後6時追記>

トリコの背中やしっぽを掴んだまま飛ぶとクソ狭いFOVのカメラが無茶苦茶に振り回されて時々何が起こってるのかわからんことになる。ただこれは大振りな動きを想定していないアバターの少年の視線が文字通りトリコのスケールの違う動きに「振り回されている」状態を表現していて、慣れるとトリコの動きの大きさや本当に自分が巨大な獣の背中に乗っている感が出て気持ちがいい。先述の車という「乗り物」の経験と異質なのは、車を乗る=支配しているのではなく、獣に乗り付けている=支配されている状態にあるので、ここでカメラがぶん回されるのは完全に正しい。エピックな経験だ。

 


 あとこの経験はそのままトリコとのコミュニケーションの困難さに置いて顕在化する。トリコはまぁ結構言うこときいてくれなかったり思った通り動いてくれんかったりするが、これはトリコのAIが無能だからコミュニケーションが取れないんじゃなくて、トリコとのコミュニケーションの中の一定の不可能性がAIに仮託されてランダマイズされているだけで、動物とは言語でコミュニケーションするわけじゃないから全てを汲んでくれるわけがない。動物とのコミュニケーションは多分、伝わらないけど「多分伝わったやろ」感とかが重要なわけで「わかりあえた」「伝わった」という喜びが伴うにはそれが常に「分かり合えないかもしれない」という崩壊の可能性のもとで機能している必要がある。相手とは本質的に分かり合えないかもしれないという緊張感がゲームには必要なんスよという話。 

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(クッソかわいい大鷲君)


このための結局はトレードオフとしての極端なプレイ経験の困難さと不自由さであって、これがないとゲームとしてはエッジが立たない(例えば他にはフロムのソウルシリーズにおける少ないリソースにおける鬼難易度とフレーバーテキストとか)であり、この辺を絶対に誤解してでかくて広くて不自由ないゲーム最高〜みたいな馬鹿なアメ公は低評価をつけるに決まってるので誰か擁護しとかなきゃよ。


つかトリコ(のAI)は「ピカチュウげんきでちゅう」のピカチュウよりは遥かに有能だよ。つかあのゲーム音声操作オンリーとかちょっと未来に生き過ぎかよ。

 

 


終わり。(一時間で書いたクッソ雑な記事)


(そういえばこれの基底概念の「不可能性の経験」について俺はエクリヲ五号で書きました。買え)

ecrito.fever.jp