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ニーチェ省察 一

-p175

(「ニーチェと哲学」G・ドゥルーズ 江川隆男訳)


「高いものと高貴なものは、ニーチェによっては、能動的諸力の優越性、それらの諸力と肯定との親和性、それらの諸力の上昇傾向、それらの諸力の軽やかさを示している。低いものと下賤なものは、反動的諸力の勝利、それらの諸力と否定的なものとの親和性、それらの諸力の重苦しさあるいは鈍重さを示している。ところで多くの現象は、反動的諸力のこの鈍重な勝利を表現するものとしてのみ解釈されうる。人間的現象の事例は総じてそのようなものではないのか。反動的諸力とそれらの勝利によってしか実在することのできない諸事物がある。語ったり、感じたり、思考したりすることもできないような諸事物があり、反動的諸力に突き動かされる場合にだけ、信じることのできるような諸価値がある。ただし重く低い魂をもつ場合にだけ、とニーチェは明確に言う。誤謬の彼方には、愚劣そのものの彼方には、魂の或る下劣さがある。したがって、諸力の類型学と力能の意志の離接は、今度は諸価値の系譜ーー諸価値が高貴であるか、下劣であるかーーを規定できるような一つの批判と分離不可能であるということになる。


 ーーたしかに人は、いかなる意味で、またなぜ、高貴なものは下賤なもの「より価値がある」のか、あるいは高いものは低いもの「より価値があるのかと尋ねるだろう。またいかなる権利によって、と。われわれが力能の意志をそれ自体において、あるいは抽象的に、肯定と否定という2つの反対の質を与えられたものとしての考察する限り、この問いに対して何も応えることができない。なぜ、肯定は否定よりも価値があるのだろうか。我々は後に、解決は永遠回帰試練によってしか与えられえないということを見るだろう。つまり、「より価値があり」、また絶対的に価値があるのは、回帰するもの、回帰に耐えるもの、回帰を意志するものである。ところで、永遠回帰の試練は、反動的諸力も、否定する力能も存続させておかない。永遠回帰は否定的なものを価値変質させるのだ。永遠回帰は、重い物を或る軽やかなものにし、否定的なものを肯定の方へと移行させ、否定を肯定の力能にするのである。しかし、まさに批判とは、能動的になった破壊、肯定と深く結びついた攻撃性というこの新たな形式の元での否定である。批判は、喜びとしての破壊であり、創造者の攻撃性である。価値の創造者は、破壊者、犯罪者、批判者ーーつまり、既成の諸価値の批判者、反動的諸価値の批判者、下劣さの批判者ーーと分離出来ない


 今日、ニーチェのような個人的な功利主義、解釈至上主義者というあり方は、思考に確信を持つことが益々困難な思考である。なぜならそのようなあり方の積極的な差異の意志は「結局、やってることは反対側の人間と『同じ』じゃないか?」という同一性への回帰を画策する者によって撹乱される。区別不可能なもの、それは常にあまりに早く同一性に接近させられる。これだけでなく、些細な筆の走り自分自身に懐疑をもたらし、本当に自分の思考はニーチェを開始しているのかと、何度も自家撞着に陥ることになる。あるいは、もっと根本的には、自らの唱える思考の形式が、形式自体の内容として矛盾してはいないのか?思考を開始するために、あるいは多くの中で価値を専横するために、自分の思考のあり方に部分的にでも背いているような有様では、その思考は正当なものではないだろう。

 

例えば意志そのものを意志するというあり方ーーナチ=ハイデガーが行った「力への意志」を欲望するーーではなく、意志は自らのあり方をあらゆる形で創造していく。意志にはそもそもモデルも主体性もない。しかし意志を思考し問題化するとき時、そのあり方を定まった形に収めようとするこの思考の流れに抵抗することには、今や甚大かつ細心の努力が必要になる。

 

 そしてこのような逡巡に浴びせられる「肯定」と「否定」の二者択一の深淵は、そもそも思考を脱輪させようとするオイディプスの誘惑が(しかし本義から言えば違法ではなく、まさに多の中の一つの思考として、だが多を簒奪する征服者のやり方をもって)潜んでいるのである。

 
 

 とはいえ、ニーチェ平等主義者でも博愛主義者に成り下がることはない。平等とは疚しい良心の見せかけの善性であり、ギリシャのような善さを転換するキリスト者という弱者の十字架を背うことで逆に高みへの出力を捻出した、いわば高利貸しの、絶対に自分自身のものではない道徳である。ニーチェは能動という肯定性を強く欲する。またそれは主人と奴隷の対立という対立と止揚主義、また競争主義という否定性への肯定でもないし、むしろそれらの能動的な破壊である。だが破壊スべきものが存在する時、それはまだ自由ではないだろう。

 

 ニーチェに関するドゥルーズの多くの解釈は、ニーチェそのものに依拠するようで、そこから発しながら最後には決定的に彼に依拠していない。言ってみればこれは彼が意志する(そう合って欲しい、そうあるべきだ)ニーチェであり、ニーチェ自身ではなく彼から由来する力能について、ドゥルーズ自身が語っている。そこにはヘーゲルのような、「◯◯において」というごまかしはない、これは彼と、しかしその最初から彼だけのものではない)ニーチェが共に向かう方向である。ところでこのような方法こそ、まさにもはやニーチェ的でない場所(場所という言葉は力能の非ー定在性に反している)で、彼を忘却しながら、ニーチェの思想を反復する、永劫回帰のやり方の実践だと言えよう。


 このような段階を経て、ニーチェはわれわれにとって最終的に、あるいは来るべき新しい人にとっては最初から忘れられるべき存在だと思う。ただただニーチェを開始さえすれば、快癒した人が病床の苦痛をさっぱり忘れるように、そもそも彼が何を言ったかなど何の問題でもなく当然になり、否定性は癒えるはずだ。われわれの多くの(あるいはわれわれの中に執拗に根付く)砂漠に向かった人々のイデアの苦しみは畜群の群れの無知ゆえの、最も哀れを誘う喜劇である。この逆に強い人々は最初から悲劇に向かい、一=多であるディオニュソスの傍らに在る。