ニーチェ省察 三

ニーチェ「喜ばしき智恵」(河出文庫 417p)

「博学な書物を前に」

 

「われわれは、書物に囲まれ、書物に尻を叩かれてようやく思考を始めるといった連中とは一線を画す。われわれはいつも、外気の中で思考する。ーー歩いたり、飛び跳ねたり、登ったり、踊ったりしながら、一番好ましいのは、寂寞たる山嶺や海辺で思考すること、道そのものさえ思索に耽る、そんな場所で考えることである。書物や人間や音楽の価値を問うためにまず尋ねるべきは、こういう問いだーー「それは歩くことができるか? それにもまして、踊ることができるか?」……。

 


 われわれは稀にしか書物を読まないが、だからといって読み方が下手になってしまうわけではない。ーーわれわれは、ある者が自分の思考にどのようにたどり着いたかを、なんと迅速に見ぬいてしまうことか。彼は座り込んで、インク壺を前に、腹部を圧迫死、頭を紙面にうずめているのではないか。そんな彼の書物を、われわれはなんと早々と見捨ててしまうことか!そこには締め付けられた臓腑が透けて見えるようだ。同時に、賭けてもいいが、そこには書斎の空気や書斎の天井、書斎の息苦しさも感じ取れてしまう。ーー誠実で博学な書物を閉じる時、私はこのように感じた。謝意を偉大、深く感謝しながらも、肩の荷が降りたような気持ちだった……。

 

学者の書物には、おおむねいつも何かしら圧迫するもの、圧迫されたものがある。「専門家」がどこかで顔を覗かせる。専門家への熱意、生真面目さ、憤懣が、そして彼が座り込んで思考を紡いでいる狭い分野への過大評価が、彼の猫背がーー専門家というのは決まって猫背であるーー姿を表す。学者の書物はいつでも、歪んだ魂を反映している。いかなる専門職も魂を歪めてしまうのだ。青年時代を共に過ごした友人と、彼らがひとかどの学問を修めたあかつきに再会したとしよう。哀しいかな、なんと見違えるような姿になっていることか! いまや彼ら自身がいかに学問の虜となり、学問にとりつかれてしまっていることだろう! 自分の狭い領域にしがみつき、見分けがつかないほど押しつぶされ、ぎこちなく、均衡を失い、やせ細り、一面節くれ立ち、ただ一か所だけが見事に丸みを帯びている。ーーそんな彼らに出会うと、唖然として言葉を失ってしまう。あらゆる専門職は、たとえそれが黄金の鉱床をもっていても、頭上に鉛の蓋が覆いかぶさり、それが魂を嫌というほど圧迫するため、ついに魂は畸形で歪んだ姿と化してしまう。これはどうしようのないことだ。こうした畸形を、何らかの教育手段によって回避しようなどと考えても無駄である。いかなる分野の達人になるにも高くつく。ーーこの世では何事も高くつくものだ。専門家は、自分の専門の犠牲になるといった対価を払って専門家となる。

 


 しかし(一方で)諸君はそれと違ったやり方を望んでいるーー「安上がりに」とりわけもっと手軽にーー。そうではないか?同時代の諸君よ。ならば、それもよかろう!だがそうなると、諸君はただちにまったく別のものを手に入れることになるだろう。専門職の達人や巨匠の代わりに、文筆家を、器用で「多芸多才な」文筆家を手にすることになるのだ。もちろん彼らは猫背とは無縁の人種である。ーー彼らが精神の販売員や教養の「配達人」として、諸君にむかってお辞儀をするときの猫背を除くなら。


 ーー彼らは本来は何ものでもないのに、あたかもすべてを「代表」し、事情通を演じ、その「代理」をつとめて、その対価として謝金を受け取り、敬意を払われ、賞賛されるといったことを、もっともらしく引き受けたりする。ーーいやはや、専門家の学識を具えたわが友人たちよ!私は諸君を祝福したいーーその猫背ゆえに!また諸君が私と同じく文筆家たちや教養の寄生者たちを軽蔑する点でも!そして諸君が、精神を売り物にするすべをしらないがゆえに!金銭的価値で表せない見識ばかりを抱いているがゆえに!そして自分の本領でないものの代理をつとめたりはしないがゆえに!諸君の唯一の願いが、自分の専門職の巨匠となることであるがゆえに!ーーあらゆる至芸や手腕に畏敬をいだき、学問と芸術におけるあらゆるあらゆる見掛け倒し、半可通、虚飾、腕立者(ヴィトルオーゾ)、扇情的なもの、俳優的なものーー要は、研鑽と予備訓練の揺るぎない手堅さを諸君の目の前で証明することができないもの一切ーーを容赦なく拒絶するがゆえに!」

 

 

 

今日、専門家はパフォーマンスを発揮して往来を練り歩く知識人=批評家に対してますます劣勢を期している。ツァラトゥストラに出てきたあの「ヒルの専門家」のように、ある分野にとことん通い詰める者は、その専門性が持つ重さを身内に受けて猫背になるほかない。

 

しかしこの反対にもっと理想的で自由なパフォーマンスが存在するわけではなく、世間には諸処の専門家を模倣して足しげくそれらを代表するような顔をした論者、つまりいわゆる批評家のような人間たちがいるだけである。確かに前者のあまりにも厭わしい変形は避けがたい。しかし多くの人は何かを専門として、その重さを引き受けることなしには、何事も真に達成することはできない。これを省略して、半可通であちこちに顔を出して手軽な見解を配る「知識人」にこそ警戒するべきで、この点で専門家は確かに気高い。だがそれは隠者や狂人の凄みであり、依然として自然の仮像を受け入れるには重すぎるのだ。

 


 ニーチェは専門家にも敬意は称しても、われわれ(ニーチェは過去や未来に自分と並び立つ者をこう称する)はそうではないと考えている。それにしても、専門家の重苦しさを如何としたものか。「われわれもまた、おおむね学者であることは否めないところではあるが。しかしわれわれは、学者とは別の欲求、別の成長、別の消化をする存在である。」これがどれほどの誤解を生むのか、想像に難くはない。

 

 

 かような次第で、ニーチェはやはり読みにくい。私が思うに、いかなる理由であれ、傷ついた状態にある人は、ニーチェにあるがままの自分の形式の肯定や、あるいはニーチェ自身に理想的な人間像を求めて本を開くべきではない。なぜならこれは誰に対しても開かれた思考ではないし、聖書のような癒やし=解決(納得、説明、理解、反動的な肯定)の書物ではないので、負傷した状態の人間がニーチェを読んでも、この門は私には開かれてはいないと気づくだけで、むしろ傷を深くするか、最悪ニーチェに対して怨みを抱くだけだろう(そして彼はもっと手軽な信仰を求めて彷徨い始める)。

 

 

 むしろ余裕があり、自分が最初は徹底的に居場所のなく、しかも自分はどうするべきなのかも簡単には与えられないということと向き合えるときの人間が、つまり誤解を避けない人間が、読み進めることができる。(とはいえ、私はこの傷つかない鋼の精神も、ニーチェの再読を通せば「誰にでも」ーーこの言葉に含みがあることはご存知だろうがーー獲得されると考えている。)

 

例えばニーチェは弱者に一様に厳しく、彼らはいずれ淘汰されるべきだという意志を貫いている。そしてそのことに関する多くの誤解を避けようとはしない。だが、今やこれを誤読したまま、悪用しようとした人間が現れた以上、我々はエクスキューズとも向き合う必要がある。

 

 この弱者とは一般的な意味での身体的・精神的弱者、あるいは社会的弱者を意味するものではないし、いわゆる強者とは全く異なるものだ。そもそも現代において、強者は潜在し息を潜める中、弱者が満ち、強者が飛び跳ねたりしないよう抑制される社会なので、強者はむしろ自らの勝利しか知らない、社会的な弱者であり、一方で弱者は彼らの生きる現代の勝利を確信した、弱者の徳の中での強者である。

 


 ここで、私はニーチェほどの強者でないので、この弱者と強者という言葉の中に既に多くの人が生理的な反感を抱くことに気づけてしまうし、あまつさえ、歴史の中のあまりにあからさまな奴隷制や階級制度への回帰をニーチェが推奨しているのだとすら考えることだろう。このように読み取ることへのあまりに自然な流れの強要こそ、我々の解釈の持つ能力に覆いかぶさる現代性を暗に表している。この生理的なレベルにまで高められた強者への反感の念こそ、パウロローマ・カトリックが用意した疚しい良心の大仕掛けである。

(ところでニーチェキリスト教は否定してキリスト自身はブッタのような受動的ニヒリズムの人であったと捉えている。「聖パウロによって異教的神秘説へと歪められ変形されて、最後には全政治的組織を味方につけ…、また戦争をすること、非難すること、拷問すること、誓約すること、憎悪することを学ぶのである。」)

 

 

 確かに未来において強者は勝利に向かうだろうが、それは支配的な弱者のルールを破壊するという意味であり、逆に弱者が侠者のルールの中で生きることを意味する。ここでも念を押すが、「経済的強者や知的階級が強者であるなどとニーチェが言うわけがない」と知りながら、我々の臆病な思考は、ではもはや倫理などない無法の時代に回帰するのか、と懐疑を持つだろう。然り、各々が価値を創出し、世界を解釈するためには、この平準化された人間像を迫る倫理こそ最大の問題であり、怨敵である。

 

追記

 「われわれの友へ」の中にはこのような記述がある。

 「きまじめな平和主義者というのはたんに、おのれの卑劣さを理性的に直視しない人間である。かれは自分が相手どって戦っているつもりの現象の本性について、二度もとりちがえをおかしている。戦争は武力衝突にも殺戮にも還元されないばかりか、かれが賛美する集会政治の母体そのものなのである。」

 

 

 「多種多様な諸世界が存在し、生の形態が厳然たる複数性に裏打ちされている以上、戦争とは大地における共存の法にほかならない。というのも、それらの出会いの顛末を予測させてくれるものはなにもないのだから。対立は、たがいに隔たったままの諸世界では生じ得ない。われわれは、葛藤をはらんだ諸力の遊動なのであり、そこからあいついで浮上する布置はせいぜいつかのまの均衡状態を示すにすぎない。そうである以上、戦争は現前するものの素地そのものである。」