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フリースタイルダンジョン雑感 

  ランニングマシンでふんふんやってたらFSD(フリースタイルダンジョン)やっていたわけで、最近ヒップホップの歴史とか最近のヒップホップも履修した俺は(界隈がやたらその方向に向かっている)、そろそろわかるんじゃねーの?という淡い期待をいだきながら視聴した。まぁ相も変わらず、という印象もあったが。そこで何が起こっているのかは少し輪郭がつかめてきた。というより、何が自分にとって不服なのか(それは良い悪いではない)、FSDにとって何が重要なのかが分かってきたような気がする。というわけでそれについてささっと触れたい。

 

 

 

 自分にとってFSDがどうしても好きになれなかった部分は、①その場で起きていることから極端に外れた内容を言うと場の評価が絶対に落ちること、②そして韻を踏むこと自体の素朴な気持ちよさがしばしば相手の直情的なDISに「場負け」してしまうこと。つまり③「簡潔な悪口」が「高潔な詩文」に勝つという、ね。こういう場面に出会ってしまうと陰キャラは大体反感覚えるんですよね〜。陰キャラは自分の「素朴な知性」みたいなのがいつかクラスのDQNを倒すと信じてるからな。

 

しかし世の中にしばしば場のモードというのが存在する。前述の問題だが、これが例えば和歌の読み合いとかなら、恒常的な美とかについて歌ったほうが絶対評価は高くなると思うが、FSDの方は判定がその場に居合わせた人たちの一体感に任されている。

 

 その場に居合わせるということにおいてすごく大事なのは、次に何を言うのか、この言葉に対して相手はどう返すのか、という緊張感を共有できないこと(そしてその習得に時間がかかること)だと思う。しかしこの分離を用意してしまっているのが字幕だ。字幕を見ると、返し始めた瞬間に話す内容がもう全て出てきてしまっている。それでは言葉が生成する場には立ち会えないし、言葉を口語ではなく文字としてみてしまう。まずこれが一つ目で、字幕をやめろ。

 

 そしてこの点で字幕で見ると良さそうな文章なのに、ということが頻発する。だが大体実際に立ち会うとそんなに響かないということはなんとなく想像がつく。長いけどかっこいい文章というのは文字にすると凄みはあるけど、しばしば口にすると鬱陶しくて大仰だし、相手に対する応答に応えてないことも多い。家で考えてきた構築的な長文の韻文は、まぁ噛まずに言えてよかったね、ぐらいの評価に落ち着くのも仕方がないが、これは座学としての弁論術がだいたい文章の精錬に頼りすぎてるからだと思う。実際の話は違う。

 

実際の良い話し手というのは大体要典を絞って簡潔に話しつつ、しかも場の空気を鑑みて内容の仔細を変えてる。例えば講義の前に与太話をせずいきなり先週の続きからギリシャの詩劇の部分を教科書を読むように解説する老人は、自分が「真実を伝えている」という安心感にあぐらをかいている結果、多くの無関心と快眠を誘うことになるが、反対に我々に響くのは大体、与太話六割ぐらいで簡潔な要点だけを伝えるような人物で、結局その人の言動や考え方に後々影響されることが多い。それは聴衆に対する慮りがなせる技だろう。要するに話し手のことを考えたら、本でしか機能しない難しい言葉は控えるものだ。

 

 その場が求めてるステレオタイプとか相手の持っている雰囲気や小さな齟齬をうまく切り取って言葉にすると観客は湧くが、この作業は用意が効かない上、利発さとひらめき、繰り返しの修練が必要なものだと思う。結局その替えの効かない観察眼の技術が、常套句のパッチワークに対して優越するのは、まぁ仕方がない。「悪口が詩文に勝つ」というよりは、単純に、観客を見ている人が観客を見てない人に勝つ、という構図なのだ。

 

ただし、視聴者は悪口を期待しながらエスプリ自体の博覧もしばしば見たがっている。それは間違いない。その技術は、この二つの性質の両方を兼ね備えたものでなければならない。つまりその場の人間に応答しながら、その場と関係ないものを引き寄せて融合させる技術、全員が本当にフリースタイルラップに期待しているのは実はそこなんだろ、難度が高すぎるわけだが。

 

 だがここが悲しい所だが、そのすげぇ一文が回ってくる回まで待たないといけないのだろう。人がその場でジャムって作ってるんだから仕方ない。TV版マクロス美樹本晴彦や板野回を待っている間の作画がクソな回を延々繰り越した先の至高の作画の一回みたいなもんだ。俺だって至高の一回が見たいがそんなの待ってるには根気がいる。そして俺は「まぁこんな回もあるよね」という根気が出ないので、誰かベストアクトだけ集めたオムニバス作ってくれ。買うから。 

 

おわり。

 

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おわり。